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- あらゆるものがあるがままで、完成していたその事実をいまこのときに、ただ知ることとなる。とは言え、輝いていることが一番大事
- 意識原理を浄化し、無意味なカルマの原理から自らを解放する生き方をしようではないか
- リアリティの本質を直撃すること、それが究極の教えだ。
- 明けましておめでとうごさいます。
- 概念を破壊できない人々。
- 新たなる教えは産まれ続ける
- 宗教行為の無意味さ
- 身・口・意を浄化することは、非常に難しい。
- ゾクチェンとは?
- 口に関するエネルギーの問題。
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ATOizm_過去
2011/01/17 18:32:55
2011/01/14 20:27:05
2011/01/03 20:01:59
2011/01/01 19:20:14
2011年 辛卯歳 明けましておめでとうごさいます。 本年も、どうぞよろしくお願いいたします。 前年より行って参りました100人斬りイベントがようやく1000人に達することができました。 心の本性を直指教導するこのイベントに参戦頂き、一人でも多くの人が自ら真実に覚醒し、社会的にブレイクして行く姿(リアリティ)を2011年も見届けさせて頂きたいと願っています。 ミハエルこと阿藤大昇より 2010/12/31 0:13:20
人は変われないのか 常に心を開き続けること。心を閉ざすことがなければ、それが悟りであり、涅槃である。 限界概念によって心を閉ざすことは二元論の輪廻にほかならないのだから。 ミハエルより 2010/12/03 22:19:54
教えは、常に新鮮な息吹とともに新たなる世代に必ず生まれ変わる。 あらゆる限界を超えて顕著に現れる。 それが究極のダキニがかかわる教えなのだから。 2010/12/02 18:45:51
解脱に至ることは、非常に難しい。しかし、その道は、常に開かれいる。だから、あきらめないこと、必ず道は明らかになるのだから。 2010/11/28 20:26:02
何かの対象を排除し、放棄したり、ダイレクトに不浄なるものを清浄に変容したとしても、当人の意識が完全に覚醒して、あるがままの境地に達したとき、初めて自己解脱の顕現が、つまり、身・口・意が浄化されるのである。 2010/11/20 19:24:04
ゾクチェンに直接興味を持つ人やゾクチェンを具体的に修行しようと思う人は、非常に少ないようだ。 それは、なぜならば、ダキニの許可がまだ公に降されていないからだ。 それは、取りも直さず、究めて、ローカルな教えで、あるし、解脱というのも、極めて個人的な問題だからだ。 2010/11/12 18:47:16
身・口・意のレベルにおいて口のエネルギーに関する問題は、現代において最も顕著だ。 なぜなら、この問題がすべての不調和、無秩序のテロ的な問題を生み出しているからだ。 がんや精神的な難病は、すべて、エネルギーの不調和と無秩序が生み出していることを誰がいつ気づくのか? それを一時凌ぎの愚かなる成就法によってその願いが叶うはずもあるまい。 それを施すあなた方がそれをよく知っているし、それによって得られ解脱などありはしないのだから。 ゾクチェンの成就こそがその限界を超える可能性がある。 2010/11/10 20:49:28
教えを心から大切にし、敬信したものは、完全に覚醒を果した。 常日頃、困難と向き合い道を求め励んいる人には、必ず神仏は微笑みかける。 それがリアリティだから。 どんな教えでもいいし、仕事でも、学業でもよい。 リアルを感じ、自らに嘘偽りがなければ、その判断は、あるがままで、絶対的に善だ、と言えよう。 2010/11/02 16:55:58
宗教オタクの悲劇。いろんな教えをコレクションしたとしても菩提心には届かない。 なぜなら、神を対象化してしまうところにもうすでに問題がある。 その旅は永久に終わらないだろう。それが輪廻だから。 教えや修行や悟りに執着している限り、解脱はまったく有り得ない。 神の代弁ではなく、自らのあるがままの心、菩提心で語ろうではないか! それが現実であり、真実たから。 本当のあるがままの自分に目覚めていない。 それを問題とすべきだ。 2010/10/26 17:23:21
我々は自らの顕現の中に有るが、ありのままの自分を認めずに、リアルなものを否定するところから問題は生じてくる。 2010/10/16 16:50:15
すでに廃人同様、あれからいったいなにを学び修行してきたのか。 まさに愚かと言うしかあるまい。 未ださ迷い続けている心。 一度もその心をかえりみたことはないだろう。 外道の行く末は、このようなものだったとは。 誰がいったい悟るのか。 2010/10/16 0:29:48
我々は、特定の守護尊や念持仏や神仏を信仰することといった、つまり、ある宗教の限界概念によって悟るのではなく、その人本人の極めてローカルな情報において、悟りを得るケースが多いようだ。 なにかの定型的な要素によってはやはり悟れない。 なぜなら我々の識はみな自由で、みな多様さのある違った意識原理を持つからだ。 何回いってもわからない人は何度いってもわからない。 それが人間の真実なのだから。 2010/10/11 21:33:19
何らかの教えや術によってこの現実が産みだすリアリティが本当に変えらると信じている人々がいるようだ。 しかし、我々が生きている夢のようなこのバルドの世界といったなにも自らが決定できない、病のゼロロジックの中に自らを閉じ込めていることをいつ我々が知るのだろうか?。 2010/10/07 13:24:37
現実を認識する能力、リアリティをみる能力、菩提心に辿りつく方法。 2010/10/06 18:03:23
悪霊に憑依され、悪しきカルマにしたがっていからざるを得ない人々は、過去世に自殺もしくは他殺あるいは殺生をカルマ負債を解消せず今世紀にもちこんでしまったからだ。 2010/09/27 22:30:33
子平の研究 最前線 子平の研究が今密かなブームとなっているようだ。 それは、門派の子平、特に明澄透派の隠されていた秘伝が世に現れてしまったからだ。 その重要な核となったのが、今話題の渦中となっている透派初代が書き残したとされる『子平窮通律』という写本である。 筆者もこの写本の衝撃たる事実を最近知ったのだが。 筆者の子平の古典研究によると徐大昇が残した『子平三命通変』が透派子平大法の秘伝を産んだことは、原典の『子平百章歌』の食神歌に子平大法が引用したとみられる文章(四字成語)が出典されていることからも明らかであるが、透派の先代が書かれたとされる『子平修学無学訣』という書物も『子平百章歌』からの引用が多いことは筆者の研究によって既に明らかとなっている。 しかし、初代の『子平窮通律』は初代が書き残した命譜をはじめて書き記したものであり、その中で論じている干支の合冲の問題や五行の強弱についていままで一般に説かれなかった方法が採用されている。 これは、例外的な特殊な命式において採用すべきであり、すべての命式に適応して行くのは無理があると筆者は考えている。これは無学訣においても適応しなければならないと筆者は考えている。 奇門遁甲においてもいままで『奇門大法』の立座派の奇門遁甲は、一般に公開されることはなく、筆者は、その方法を吟味した結果、かなりの的中率があることを発見した。 これは『皇龍』のこれから出る最新バージョンによってはじめて世に出るといって良いだろう。 2010/09/24 10:00:29
セムの浄化法 心とは何かと問えば?。 映し出すものと説く。 すべての対称を写し出す。 その対称に支配されて翻弄されるのか?。 それともその対称を自らの輝きと認めるのか?。 すべては、自らの心の在り方によって決まる。 心とはもともと清浄で清らかだと人は言う。 しかし、それは根源的な心を指し、我々の日常の心は汚れで一杯である。 汚れが極度に達したとき自己破壊と他者への破壊が起こる。死すまでその運動を繰り返す。 運勢の悪いときや不幸に逢ったとき人は、意識の穢れを増殖し、積み重ねる。 あるときやあるポイントに行ったとき、それが発動する場合がある。 それは我々の識にすでに植えつけられていたもので、それがときを熟して発芽したのだ。 識はカルマのすべてを記憶し、負債のすべてを記憶している。その負債があるからこそ我々は存在しているともいってよいだろう。それが運命というものかもしれない。 だから、瞑想して心を浄化するのだと説く。しかし、神々が為す二元的な瞑想方法では心は永久に解脱を経験することはないだろう。 日常的な心がもし汚れているとしたら我々はすべておいて自他共に対称を汚していることになる。 なぜなら我々の心はすべてを写し出し、それに受容と拒絶してしまうからだ。 そうして知らない内に我々はカルマを積んでいる。善行には誉れが来るし、悪行には裁きがやってくる。 一人の愚業はまだしも集団や団体ぐるみでやられたら眼をあてる閑もないだろう。 欲望に縛られている限り、その行いは、必ず穢れたものとなってくる。 これが我々の存在するルールともなっているのだ。 心の本性という非日常的な心が我々の根源の中にある。 それは日常的ではない二元的な思考に汚されていないものがある。 そこに我々の意識を常にもって来ること、それがセムの究極の浄化法である。 様々な物があったとしても心がなければそれを認識することはできない。 たとえその同じ物があったとしても心の方面によって多様な解釈や認識がなされるだろう。 その二つが我々の心の世界を構築しているといえよう。 現象諸法を心が捉える方法としてセムがある。 ありのままを写し描くために、セムはリアリティーの無いも、自性のないもを捨て去っていく。なぜなら幻影だから。 そこに顕然たる心の解脱があるのだから。 2010/09/23 13:53:52
保持するもの。 あるがままに与えられたもの、天から授けられたものは、誰がそれを剥奪しようと無理な話。 高額な不本意なお布施は、その負債は、当人に無い場合は、支払い義務は発生しない。 福徳を真面目に集積している人々から金品を巻き上げて搾取しようとする愚かな宗教者たち。 あなた方に存在意義が果たしてあるのだろうか?。 神仏は見ているというけれど、自らが為した所行が正しいかどうか、自らの智慧を発動させてみる必要があるだろう。 それによってカルマの解消がされたのならば、布施をする意義はある。 しかし、何のカルマの解消もなく、人々を奈落の底に沈めようとする宗教家がなんと多いことか?。 悪しきカルマさらに相乗効果をもって積み重なる。 智慧のなきことが度が過ぎる。 所行は明らかになる。 滅びはすぐそこにある。 生き詰まる。 それが人間の運命なのだ。どんな崇高で有ろうが、人間というモードから脱出できないでいる限りカルマからの支配から逃れることはできない。 中途半端な超能力を得たとしても人間のモードにあるものたちは、六師外道のつまり、ブッタの手のひらの中にある。 六道の中の聖仙となること、それ以外に何の意味があると言えるのか?。 自らの本質と本気で向き合う勇気があるならば、必ずや答えは出る。 行くべき道もはっきりする。 覚悟と決意のない人々に解脱と悟りはもたらされないのだから。 無償で為した善意の行為に福徳はどんな場合であれ山積みされて行く。 それが功徳の資糧であり、つまり、ブッタの顕現の中にある。 これこそが本当の供養であり、布施だったのだ。 だから生きたグル・デバ・ダキニに、真心から、尊崇すること、供養すること、帰依すること、布施することが、無上菩提を生む、つまり、ブッタに目覚める結縁と必ずなるはずだから。 それ以外の解脱などは有り得ないのだから。 2010/09/22 13:28:12
解脱への虹の階梯 心からセムから攻めるのか?。 法界からロンから攻めるのか?。 メンガクからニンティクから攻めるのか?。 ゾクチェンは、三部の教えのどれでも良いから三昧のバルドに趨く方法が説かれている。 三昧のバルドに入るためなら八乗の教えである方位も風水も十分考慮するすべきであろう。 現代においては、瞑想センターや寺院や禅寺のみが良き瞑想のフィールドとは言えないからだ。 さらには、教えのレベルや階梯であるあるところの内・外・秘密・再秘密の四階層の深みを理解していく必要がある。 ゾクチェンの教えでは、聞・思・修の三つの実践が重要であるが、まず人の言うことをしっかり聞こうとする態度は、基本中の基本となるだろう。 そして良書を読む必要があるのだが、ほとんどの人は、自らが限られた見解の中で、その本を読むので、どこまで行っても著者の真意を理解することはできない。 死した著者なら仕方がないが、生きた著者に直々に面談したとしてもそれでも不可能だ。そこにこそが我々の持つ人間の意識(みんなそれぞれ異なる識をもつからだ。)の限界なのだ。 コミュニュケーションには所詮限界があるのだ。 なぜならば、我々はその限界概念の中で封印され活かされているからだ。 その限界をどう受け止めて行くのか?、これは、政治や世事やそれに対した占いや宗教に限らず、人間が生き残るための最重要テーマであると筆者は想う。 お互いに解り合おうとすること、譲り合うことが、どんなに困難であるか?。 戦争紛争・宗教紛争・家庭不和など、数えればキリがないこの世の中の紛争の根本は解り合おうとしない、譲り合おうとしない、我々のこの頑固な心(セム)にあるからだ。 武装兵器やテロリズムを説きそれを行使してしまう人々の心とは、裏を返せば人々がより解り合いたいという人間の心の本音(本質)が投影されたものではないのか?。 その隙間を無理にでも埋めようとする根絶意識が、戦乱を産みだすのではないか?。 我々が個としての自らの利益と自らの幸福しか、もし考えていないとしたら他を排除する戦争や宗教紛争は永久に尽きないだろ。 それが、もし、その限界を打つ破ることが出来たのだとしたら、それを奇跡と呼ぼう。 人はされたことに対してその記憶は残っているけれど、自らが為した愚業の記憶を忘れ去っている、それが問題だ。自らの断罪を隠し通して輪廻転生しているのだから解脱できない訳だ。 なんの開放も浄化もされていない意識、それこそが輪廻の正体だ。 我々が駒に過ぎないとしたら三国志のレッドクリフの再来であるといえよう。 その駒が諸葛孔明のような働きをするのか、それとも単なる歩兵としてこの世を去るのかと?。 2010/09/21 11:22:04
再リターンマッチ ここ2000年を前後を起点に10数年間に渡って無謀なる聖戦的求道とも呼べる外道を含めた修道の啓蒙活動は盛んに行われた。 しかし、今その自然淘汰が白日のものとなってきた。 嘘をつき続けた外道教団は、解脱詐欺を認めた。 今世において解脱は不可能だと。 ある教団に所属していたある人は、その教団の秘法をすべて試し尽くしてみたが一時も救われることがなかった。(それがその人のカルマだったと言ってしまえば、その責任から逃れられると想ったのか?。君らの為したカルマの負債は顕然とこの世に明らかとなった。脅しではなくもう逃げ場はないのだよ。事実からは。その被害者はみな霊媒体質となって、昔でいったら狐憑きの状態となっている。それは現実の生活に支障を来した一種の精神障害で病んでいる状態である。これは『ダキニの護符』によってある程度解除可能だ。) いじればいじるほど穢れていく水のように。放っておけば自然に水は清浄になっていくもの。 その人の場合は、その教団と拘わったがために自らの寿命、つまり、死期を速めたといってよいだろう。 なにひとつ、真実のリアリティーを見ることができなかった両者の悲劇。 訴えようにも死して何の供養も施されない哀れな姿。 本当はその両者とも同じ苦しみの境涯にあったのではないか?、つまり、餓鬼に。 根本は、本当のグル・デバ・ダキニを見極められなかったあなた方にその責任がある。 いつまでも責任を人のせいにしていてはダメだ。(魔境教団の被害者は、それを認めず、未だに不平不満や何の菩提心も慈悲にも目覚めなった悲劇の末路に住している。) 自らが責任を、その汚された不条理を、そのカルマの負債を晴らすこと、そこに菩提心と慈悲があるのではないか?。 なぜ誰も立ち上がろうとしないのか?。(欺瞞の渦中にいる人々や哀れな宿縁を断ち切れないでいる哀れな人々へ。) 自らの断罪と限界を認めることだ。 そこが滅びと再生のターンニングポイントなる。 真実に出合うことは、こんなにもハードルが高いのか?。 しかし、それを乗り越えて来ることを待ち望んでいる。 真実のグルとはそういうものであり、必ずやあなたに微笑みかける。 それが真実の慈悲というものだ。 だからこそ、懺悔し、改心し、浄化を果たすこと。 そこからがすべてにおける出発点なのだから。 2010/09/19 0:33:48
教えによって人間はどこまで自らの固定概念である自らが作り上げた概念の我が家を倒壊させ、自らが犯したカルマの断罪を解放し、より無垢なる神仏の境地に近づくこと、つまり、完全解脱するにはどうしたらよいのか?。 我々が現代に生きるこの世のモードではない如来や菩薩や明王や神々やダーキニーたちのモードにどうのように我々を遷果させるのか?。 それにはまず、我々の心(セム)から大変革するしかないだろう。 我々の意識を裸(あるがままの)の空に、我々の各個の意識を完全なる裸の明知の空に置いて、要訣を、撃つことで、意識を浄化に、解脱に導く可能性はある。 すべての問題は我々の意識がすべて写し出している。 その苦しみの根源を絶つには、何らかの心計をもったものでは、外見や見せかけの浄化は出来たとしても、根源であるところの自らが為したカルマによる根本的な汚れと負債を解消することはできない。 一個人の過去世のカルマだけではなく、家のカルマ、家系のカルマ、土地のカルマ、つまりは、本人以外の家族や遠縁の親戚だけでなく、土地のカルマすらも、のしをつけて本人にダメ押しで、のしかかって来ているのだ。 それが個人の運勢や家相や墓相の風水にまで悪影響を与え、個人に歪められた不本意な運命を、そして家族に、一族に不条理なカルマの負債をみな何も不平を言うことも強制されて今世でその高額な負債を支払っている、それが我々の悲しき運命なのである。 ある宗教概念によって固定なるある一部分を成就法によって浄化する方法(境(ロンといえるのか)を封印する方法や大印や後期密教の方法)を用いて導いたとしても根源的な浄化は果たせない。 なぜなら、究極の密教の解脱法をもってしても我々の煩悩を解決することはできない。 なぜなら、人間として我々が今世に存在するには、煩悩と人間となるべきカルマがなければ存在できないからだ。 人間であるがゆえに背負う運命だから。 その矛盾の開放をゾクチェンの教えは求めたのだった。 個人、家、お墓をもし浄化出来たとしても問題は山積みだ。 問題は、すべての意識が浄化され、来るべき自らの死に向けてどのように対話し、準備し、対処していくかが仏教の最重要課題であると『チベット死者の書』は説く。 それは死して尚、仏となるか?、それとも六道輪廻と呼ばれる再生のバルドに向うのか?。 今世で行った意識状態がそっくりそのまま来世に向かと考えている。それが人間としての究極のリアリテーが待ちかまえていると説くからだ。 だからこそ、現代に生きる我々は、生き残る為に絶対にリアリティーのないものを追ってはならない。それは解脱を阻み、それは我々を迷わす幻影だからだ。 だからこそ、シュリー・シンハは『クンチェ・ギェルポ』で、蜃気楼を追う鹿はいないと説く。 グル・パドマ・サンヴァバァは説く、世の中の世事に熱中している閑はない。なぜなら、人は限界概念の中で生き、肉体的な死はもうすぐそこに忍び寄ってきているのだから。 天寿を全うせずに、志半ばで逝ってしまう人もいる。 それが概念による世事に拘った概念による自殺と言って良いだろう。 そのような人々の心は悲しく幽閉された独りよがりのテロリストと言わざるを得ない。 本当に愛していない人を愛せないように、人間とは、概念に縛られてしまった人々なのだ。 しかし、本当に愛し合える、いや、その器に値するグル(どんな人間関係や動物や物や印象やそれ以外のくだらなくても何ででもいい。それが当人を奮起させ覚醒させ悟り導くならブッタだ。)と呼べる人に出合ったのなら歓喜が生じるはずだ。 それこそが歓喜天のヤブユムの神々が言わんとする密意なのだから。 だからこそ、マハームドラやゾクチェンの瞑想法が重要な意味を持つ。 しかし、極度の意識の汚れやカルマの負債が大きい不徳の弟子たちには、その秘宝を理解し、実習する功徳すら持ちあわせていない、つまり、資糧に、解脱すべき資質に欠けているからだ。 加行はそのためにある。 心を浄化するために行うのだ。(どんな求道であってもそこからすべてがはじまる。) 心が浄化されていない内は、どんな手だても悪しき方向に向かうだろう。 しかし、その加行すらできていない人々が今世において解脱を求めることがすでに問題だ。 意識の家が倒壊出来ていない人々が、いくら悟りや解脱を求めても水泡に化す。 それをマーチン教団やキリ教団が証明してくれたのだから。 自らの本質と来るべき対話をする修道システムとしてゾクチェンの修道は、顕然として現代に顕現した。 もちろんハードルは高い。それをちゃんと教えてくれるグルすら存在しないのだから。 見方が変革すれば、意識も変わり、心もまったく今までになかった顕現を産み出すだろう。 概念すらすでに超えた見解を有すなら、必ずや自らが課している限界を乗り越えることは可能だ。 なぜなら、ゾクチェンの修道の見解であるところの基・道・果は、人間の存在モードである身・口・意をそっくりそのまま虹の身体を持つ存在モードの仏神へとこの空間へと遷化させるからだ。 2010/09/16 9:47:43
生きたバルドの道を歩む我々は、対称化される自己顕現であるところの対象物、或いは人者に対して何らかの感謝や尊敬や崇拝し合いながら助け合うことがなければ、互いが共存し、生き残る術と道はないだろう。 その対称である、彼、彼女、またそのそれぞれを、 師(ブッタ)と想えば、師(ブッタ)となる。 占い師と想えば、占い師となる。(それがたとえブッタであったとしても。) 恋人と想えば、恋人となる。 家族と想えば、家族となる。 あかの他人(縁無き衆生)と想えば、あかの他人(縁無き衆生)となる。 嫌われ者と想えば、嫌われ者となる。 その対称が一時、一会であれ、ブッタである場合は、尊称として崇めるべきであろう。 しかし、それを自らの所有物だとか関係のない人だとか最悪には迷惑をかけた頂本人などと思って、その対称を汚したりしたなら大きなまちがいである。 たいへんなバチが当たることになる。 存在する意味、対称化するには非常に大きな意味がある。 それを真摯に受けとめるのか?、それとも思い違いするのか?、目の前にブッダが現れているというのに!。 その対称にブッタの輝きをみることができれば、自ずと畏敬の念が溢れてくるはずだ。 勘違いしてブッダと争えば、悲劇が訪れる。 ブッタを知らない土着の神々や外道の人々と争ってもしかたがないことだ。 異常なまでの搾取や人道を越えた道ならぬ道を歩む人々やリアリティーを完全に見誤った人々には必ず滅びのときがやってくる。 改心が必要だ。これが本来の倫理や道徳であって本人の心に大きな問題があるといえよう。 その行為はまさしく当人の意識から自然に溢れ出てきるものだから心を大きな問題としなければならないだろう。 その渦中にある人に告げる。 悟れなくても覚りなさい。それが筆者の助言だ。 2010/09/14 0:13:02
断罪 おのが罪に気づこうとしない輩たち。 その罪をあがなうときは必ずややってくる。 いま苦しんでいる人のためになぜ断罪しないのか?。 それがあなた方が救われない大きな原因だ。 なぜ懺悔し、反省して心を入れ替えようととしないのか?。 自らのその歪んだ顔がみえないのか?、それとも自らの道ならぬ顔を直視しようとしないのか?。 時は流れ、死が訪れて、生きながら罪をあがなうチャンスすらなくなることをなぜ理解できないのか?。 今がその絶好の時なのに、なぜ実行しようとしないのか?。 哀れ、愚かな人々に誰も救いの手は差し伸べられないのだから。 自分たちが魔の教えを信奉する教団であることを認めることだ。 魔界仏界同如理とはいえ、そこから離れること、善悪や執着や嫌悪から離れることに意味があり、皆同じではない。 所作タントラレベルはまだ発展途上の教えであり、完全なる教えを説いたものではない。 それに満足していてもその教えの概念に縛られていてもダメだ。 自らが信奉する教えがどのレベルにあるのか?、それを知り、理解する必要がある。 最高だと想った教えが実は最低の教えであったり、まったく眼中になかった最低の教えが実は最高の教えとなる場合がある。 自説のその師匠の自らが提唱する解脱成仏が最高であるといくら唱えても言行一致しなければなんの意味もない。 思い込みの解脱成仏やマジックやトリックの解脱成仏を説く輩は世の中に万といるのだよ。 それは顕現を映し出す鏡の意識によるパラドックスによって個人差があることは否めない。 心を込めて純粋に観ることだ。それを見解と言う。見解と現象が一致したのならリアリティーの本質を垣間見た、つまり、心眼で、現象を見、その真実を顕わに掴み取ったといえよう。 自己満足の見解では、洗脳された顕現を打ち破ることはできない。 道や覚りを求める人々に告げよう。 概念的洗脳を打ち破り、真実を観る智慧の眼を育んで欲しい。 そこにこそ、覚りの、悟りの、終着駅がある。 だからこそ、筆者は、自らが会得したゾクチェンの教え、つまり、私(ローカルロジック)の異端とも呼ばれても仕方がない教えを説き続ける。 ローカルロジックからオールロジックに向かう、つまり、個から普遍を目指す教えを説き続ける。 それが個として顕現した私(ブッタの化身としての)の存在意義だから。 (魔境教団(外道)を撲滅し、根絶するまで命ある限りその断罪とその汚れとに筆者は戦い続ける。勝利の日となるまで。それが筆者のカルマの負債を解消するレッドクリフなのだから。すでに被害者であるその魔境教団が搾取し、汚した善良なる人々数名を確実に救った。筆者に救いを求めるならば、その魔境教団に汚されたすべての人々を浄土と呼ばれる彼岸に渡すことを成し得ることができる。それが筆者の決意でもある。それが筆者が苦心して体得し、会得した私なりがゾクチェンと呼ばれるグル・デバ・ダキニが個人的な悟りに直接武装介入する聖なる教法なのだから。これ以上の教えはこの世に存在しないだろう。なぜなら、教えという概念すらぶっ飛んでいるのだから。それがダキニの教え。。。) 2010/09/14 0:11:30
生起した問題に対して真剣に向き合った人は、それなりの成果を期待することができる。しかし、いい加減に適当に対処した人には、期待とは裏腹の反対の不幸がやってくるだろう。 人が真剣に忠告を発しているのに、その真意をまったく心を開こうとせず、断固聞こうとしなかったものたち。 良いアドバイスを聞いたとしても、それを実行できないでいれば、残念ながら、死はすぐそばにやってくる。(脅しや恐怖に関係なく。) 理想を追う人々。人を貶す人々。 道は二つに分かれた。解脱開放を求めた人と、煩悩と妄念と搾取を求めた人々。 答えは、明らかとなった。救いの手を、対称をブッタとして、崇めるのではなく、欲望の対称として相手を汚すことしかできなかった者。 ブッタをなめた人々の末路。 師にブッタは降臨する。師の中にブッタの輝きを見出せなかった愚か者。 そこに生死は分かれた。 師は弟子を彼岸に渡すことに成功した。 しかし、大きな勘違いをした煩悩の住人には最悪の結末を迎えた。ダーキニーすら匙を投げた。 その意味を深く、噛みしめなくてはならないだろう。 救うべきブッタの化身がお迎えに来たのにも拘わらず、なんの感謝も謝礼もなく、神聖なるブッタの存在を詐ることしかできなかった三悪趣の住人たち。 三悪趣に堕ちるのは本人の自明とはいえ、あまりに哀れすぎる。そこには神も仏も天使すらも否定されるから。 バチが当たったのだ。それは自らのカルマの負債が熟した結果にすぎない。 それは自らが背負いあがなわなければならないカルマの負債なのだから。 マーチンもそれに同等な魔境教団も同じ道が用意されている。 だれも彼岸ではなく、魔境の三悪趣の住人なる。なぜなら、その方法が欠けているし、解脱に信をもった修行がなされていないのに、霊験あらたかなグルもダーキニーもデバも不在なその集団の中で、誰が解脱成仏できるというのか?。 三宝をなめた教団がどうして解脱の結縁を得ると言えるのか?。 グルヨーガすらできていない、師より破門されるような傲慢教団にブッタが顕現する訳がないはず。 仏教を根本からなめきっている集団に外道集団と呼ばれる十分な条件が揃っている。 明白だ。そこに拘わった霊的憑依は非常に深刻な問題となっていることを当の当事者は本当に理解しているのか?。霊的犯罪があったとしたら絶対に裁かれるだろう。 だからこそ社会に与えた責任を取って欲しい。本当の善意と仏心があるならばな!。 帰依と懺悔はそのために真実として顕然する。 だから、残念ながら本当のグル、デバ、ダキニしか今ある最悪の状態を打開することはでない。 そこれこそが真実なのだから。 2010/09/14 0:09:57
かぶった祈祷師や宗教家になんの浄化とポワができるといえるのか?。 リアリティーとは、如実に顕れる。何もとれていなかったのだ。誰も成仏していなかったのだ。(それを解脱成仏詐欺というのだけど、そもそも解脱成仏させることがどんなに難しいことなのか、それすらまったく認識すらない愚かな輩たち。) そのものはグルでも導師でもブッタでもない。 人を迷わす外道に過ぎなかったのだ。 その煩悩と罪垢と罪悪と不幸を飛び込む魔の波動を善良な人々に感染させないでくれ。 その存在とその行為がすべての人々を汚し、不幸へと追い込もうとしている。 その犠牲者を筆者は数多く観た。これが外道の所行なのかと。 今起きた現象にすばやく対処できたならそれを認めよう。 ごまかし、偽り、幾く人がその犠牲にあったのか?。 偽りのグルを信奉した人々の悲劇。 断固拒絶すべきだ。なんの功徳の無いものを追ってはならない。 目に見えないものだから判断は難しい。が、しかし、人間の真実を観る本当の智慧の眼でみることができるなら一目瞭然だ。それはいつでも見えるというわけでなく、純粋に心を込めなければみることはできない。 それが見えないこと、いや、みようとしないことが重大な問題だ。 なぜなら、その双方が、なんの悟りにすら到っていないからだ。 末期のガンによる死亡。過去世のカルマからの憑依による精神攪乱。借金地獄による経済破綻。最悪の人生のステージは、自己責任ではあるが、すべてが魔境教団が画策した悲劇の現象である。なんの救いすらなく、当事者から宗教的脅迫もしくは、宗教的慣習によって生命線である金品を搾取され、命を筆頭に財産や名声や生きる糧や希望さえすべて奪い去られ剥ぎ取られすべてを失った人々の哀れな姿。 カルマを解消し、解脱聖道させることすらできない外道の教えを説く者たちにおのが成仏するために布施する愚かで哀れな人々。 (筆者はそのようなものたち、或いは、そのような宗教団体を仏教的外道と呼んでいる。宗教概念ですべての人々を救えるなんてスローガンのようなものを立てることがすでに傲慢であり、無謀だ。まだアニメの宗教紛争の根絶を説く、私設思想武装組織の方がまだリアリティーがあるといえるだろう。) 常識や自らの損得などの限られた概念によって真実のグル(自らの本質・自分自身の本質)を測ってはならない。 真実のグルの自性を測ろうなどとそれは無謀であろう。 偽りのグルは抹殺される。生霊によって咳き込む。 これが真実なのだから。 いつまで世間を騙すのか?。自らの利益の為に。 責任を取りなさい。まず自分の否を迷惑をかけた人々に土下座して誤ることです。断罪し、罪をあがなうことです。それしかあなた方に選択できる道はないのです。 それができないというならもう人間として一社会人として存在する価値すらない。 完全なる滅びに向かっていますよ。 自らの愚業を認めないとするのならもう誰もあなた方に救いの手は二度とやって来ない。(これが最後の警告です。その尻ぬぐいを筆者にさせないでくれ。) そして、その犠牲者を救うのは、真に慈悲に目覚めた真実の人、そこにはなんの見返りを求めない行為がある。それこそが真実のグルと呼べる人たちだから。 徳のある人たちの後に従いなさい。不徳の人々の後を追ってはならない。 なぜなら、そこには解脱も涅槃ももたらされないのだから。 だからこそ励みなさい。真実のグルまたは、徳ある人々と認められるまで。 智慧無き人々は思うがままに去るしかないのだから。 だからこそ観察しなさい。自分の姿を、自分の所行を、仏の心であるのかと?。 2010/08/31 22:15:05
人はリアリティーを全然見ようとしていない。本質から誰もが眼を反らしている。 人の出合いは、非常に意味のあるものである。しかし、その本質をどこまで見極めている人が何人いるのだろうか?。 誰もその真実を理解していない。グルやダーキニーが目の前に居るのに、迎えに来ているのにも拘わらず、それに気づこうともせずに、自らの悪しきカルマと煩悩を燃やす人々。 もう自分や血縁や他人の部外者に嘘や偽りを語るのはやめよう。 そこには悟りも解脱もまったく一点すらないのだから。 リアリティーを失って狂った人生を歩む悲劇の人々。 リアリティーをみる術すら失った宗教、政治、学問、科学、その他もろもろの諸法に未来など来ないだろう。 ばかげてる。人は真実を見る眼を失っているとはいえ、真心すら既に失っているとは、完全に狂っている。 この世に未来など見ることはできない。 すべては、限界に、絶望に、生きる人々の哀れな姿。 認めよう。それが我々に課された輪廻なのだから。 悟れないロジックを行使して生きることは、外道を為すことであり、そこには、安らぎも安堵も解脱などありはしないのだから。 今すべき事を誰にも邪魔されずことなく、為すべき事をなす。 カルマの負債ではなく、自分らしい人生をあるがままに生きる。 それ以外に人生に何の意味があるといえるのか?。 本気で、本心から、素直にぶつけて生きている人々に嘘も偽りも全然通用する訳がないのだから。 だからこそそのように生きる人々に偽りも嘘もついてはいけない。それが人として生きる中で絶対にやってはならない外道だ。その結果はさらなる悪しき六道輪廻に落ち込むことは免れない。 魔境教団に依存する人々や決別した人々もその例外ではないことをとここで表明しておく。 本当に詐ることなく、嘘つくことがなく、真実の生きたグル、デバ、ダーキニーに出合って欲しい。 それにしか真実の悟りと解脱がないのだから。 私(筆者)はすでに出合っているよ。。。 本当の三宝に帰依し、敬慕と崇敬ができていない、そのあなたに問題がある。と言うしかないだろう。 だからこそ、毘沙門天、ダキニ天、不動明王が筆者のもとに顕現したのだから。 だから何も見ていない覚っていない人は、門前払いされることは必須だ。 それは、悲しくも自明と言えよう。 仏教に出合えていない人々が、出合おうとする人々がなんとすくないことか。 2010/08/30 20:18:23
バルドの住人。 人は自らの顕現の中に閉じこめられている。 限られた概念の中に人々を追い込んでいってもそこから解脱は生まれることはない。 勝手に頭で作り上げだ概念を対称に押しつけてはならない。 傲慢で無礼な態度は人を苦しめ、対称に苦しい足枷を産むだろう。 それを開放できるのか?。それともその顕現に閉じこもって引き込んで生きて行くのか?。 回りを見廻したとしても同じ顕現のものたちばかり。 同じ顕現を持つ同士が啀み合い争い合う。 裏を返せば悟れるはずなのになぜに顛倒してみれない智慧のなさ。(というよりも智慧の酸欠状態)。 他をみわたせば不平不満に陥ってすべてを他人のせいにして自らをけっして顧みることのないマリクパの住人たち。 失敗というものを認識したとしても、すべてが失敗の中に現代の人々の心はあるのに、そこになんの成功があるというのか?。 がぶった占い師が特異な占いでもって何を説こうが何も解決しないし、そのような占い師を指名する客にも大きな問題があるが。 オファーされなければ、なんにもならない。しかし、それ以前にそのような人をオファーしてもなんの意味もないことを何時その本質を知るのか?。 妥協と迷妄の人々は翻弄され輪廻の中を彷徨い続ける。 対称とは自分を映し出す像や鏡のようなものであり、どんなものを目の前においても自らを映し出すのみで、対称の像によって何かが変わることはない。 その対称を通じて大いなる悟りに達する可能性を秘めている。 しかし、自分が悟れなければ、どんな対称(宗教や啓発や政治やその他諸々)を目の前に置こうが煩悩の受容と拒絶の堂々巡りが永久に繰り返して行くだけだ。 心がすべてを決める。だから対称である相手の心を見つめる必要があるだろう。 問題を抱えているとしたらすべて自分の心が生み出したものであり、その解決も心においてしか絶対に解決されないのだから。 解脱に向かいなさい。出離。決別しなさい。妄念と執着に。 自分を偽り、根本グルの説く言葉を欺き誑かして生きている人々にはバルトの恐怖しか課せられないのだよ。 本当に苦しみ、本当の救いを真剣にこいねがうものたちにしか、ブッダもダーキニーも絶対に振り向かないのだから。 人は解脱するための教えと福徳と糧量を保持することは、なんと得難いものなのか!。 狂った宗教にすべてを搾取され翻弄され自分の命(リアリティー)の大切さすら忘却されてしまった哀れな人々に。 愚かな宗教や解脱の可能性すら一点もない寺院に帰依し、布施するべきではない。 人には、究極的には、仏となるか六道輪廻に墜ちるか、その二つの道しか選択支がないのだから。 2010/08/24 17:52:19
自らのカルマの負債を開放するためにさらなる悪しきカルマを積み立てるものたち。 彼らはことの次第を本当に理解しているのか?。 自らが犯したカルマの負債は雪だるま式となって自らに返ってくる。 良かれと想った行動が、慈悲があると勝手に本人が思い込んだ行為が完全に裏目に出た人たち。 かぶった人たち。それはテクチューのレベルの悟りに達していないからだ。 そこにはなんの救いも助けもない。 偽りの菩提心を信奉したものたちの哀れな姿。 哀れな集団の末路とそれに拘わった悲劇の人々。 そこには粒ほどの安堵も悟りも解脱もなにもなかったのだ。 悟れない人々には悲劇しか用意されていない。 限界概念の悟りや安易な解脱を説くのは、もういいがげんにやめよう。 浄化や解脱など一点もなにもできていなかった。一時の幻影(幸福)を見せただけに過ぎない。 もう嘘をつくのは本当に止めるときが来たのだ。(究極の外道であったことを認めること。しかし、それすらも感じていない輩も多いのだが。) 解脱に信を持って触れ続ける行為。 どんな悪しき行為や過去世のカルマの負債すら開放に向かう。 一瞬にしてカルマの負債から来る負の顕現は瞬時に消滅する。(つまり、完全解脱、彼岸に達する。) この真実の仏法になぜ触れようとしないのか?。 いかなる顕れも自らを如実に映し出したものであり、ああだこうだとなんと言おうが、それが自らの本質を映し出している。 受容と拒絶、論外、思いこんだ無意味な行為そのすべてがそのまま本人の真実を写し出す。 それを細部に渡って真剣に観察していないことが問題だ。 そのためには、自分を真剣に観察する必要がある。 人は自分に気に入らない問題をそのままにして、なにも解決せずに次のテーマに移ろうとする。 論外であるし、その現象が起こった真の意味も知らずになんの気づきも反省もなく見過ごしている。 そのような人々に真の幸せのステージなど来る訳などない。 セムロンはオールロジックの悟りを説き、メンガクはローカルロジックの悟りを説く。(しかし、ゾクチェンは極めてローカルな教えと言わなければならないだろう。なぜなら、その道に目覚める可能性があまりに少ないからだ。) 究極の悟りを個人において実現しなければ、解脱の体験を実現することはできない。 どんなに真如があろが、自分が真如を体験できなければ、その道はなんの意味をもたないものとなる。 解脱の設計図をいくら眺めていても、当の解脱は永久にやってこないのだよ。 概念だけの悟りや机上の解脱に満足しているようではだめだ。 見解と行為が一致する。それをたとえるならば、良い音色がするギター。それは作り手と弾き手がみごとに融合して、お互いの価値を第三者の聞き手すらそれを認める。 悟りを求めるものの悟りが、そのような悟りであって欲しい。 真実を対称(対象)が選ぶ。それが如実であるのだから。 脇目も触れずにまっしぐらに外道ではなく、本道(聖道)を歩いていって欲しい。 概念を超越したところに悟りがある。その手法は概念を宗教すら遙かに超えている。 それこそが本当の仏法であり、あらゆる限界概念を駆逐し、宗教すら必要としない境地。 それこそが私の教え。 2010/08/17 2:25:56
心は自ずから立ちのぼり顕れる。形となって顕れる。心の在り方が存在の形状を現す。 純粋な心なのか?。それとも煩悩にまみれた心なのか?。 心は六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・神)の姿をもって顕現する。 だから自分の現れを観察する必要がある。 仏の心なのか?。それとも餓鬼の心なのか?。 リアリティーを映し出す目を持つ人に嘘やごまかしは効かない。 みなバレている。道ならぬ道を歩む外道たち。 真実を歩いていると錯覚している異教徒たち。 聖道とは、いかなるものなのか?。 本来、心は誰でも清浄であるとは言っても、妄念に、執着に心燃やしている人の心のどこが清浄であるといえるのか?。 聖道において清浄な心は一切妥協無し、心に妥協があったのなら聖道を歩いていることにはならない。 心において一切妥協無しの生き方、心を清め高める徹底した生き方が求められる。それは言葉によって決して語られることはない。 直球で、真剣に生きる、それが私の生き方。 与えられた喜びより、与える喜びの素晴らしさ。 大いなる悟りを得ることがどれだけ難しいか?。 マハームドラやゾクチェンの瞑想を修せずして心は解脱することは有り得ない。 仏教的異教徒たち、外道の人々たちの瞑想は真理(リクパ)に結ばれていない。 この現実を認識しなければならないだろう。 2010/08/12 0:24:04
存在の消滅 もうこの世に私は、概念として、人の意識として、存在していないし、もうこの世に幻影としてしか存在していない。 昔、流行った「NSPの影踏み」みたいだね!?。 何もないものをつかみとろうとしてはならない。 もう存在は消滅し、カルマ的顕現しか残されていないのだから。 あぁ~、あのとき、トゥーゲルの修行を終えたとき、もうすでに、存在はすでに消滅していた。しかし、残さたものたちのために今幻影としカルマ的顕現、つまり、幻身として復活して縁ある人々の前に顕れて、教えを説いている。 もう既に逝ってしまっているのに、解脱しているのに、その真実を解って欲しい。 その虹の光の残映のみが存在の投影として諸葛亮孔明のように死した人形のように概念として存在しているだけ。 今を解脱に向けて本気に生きている人々へ、幻影を追ってはだめですよ。真実を現実を追ってください。 2010/08/09 13:36:01
どんなことがあろうと心計と離れた裸のあるがままで生きて行くしかない。 どうやっても真実をみたものは、自らの清浄な自性を穢すことなどできないのだから。 行き着くところ、無造作で、心の緊張から離れた、ゆったりとした落ちついた心境。 何かを為すことなく、自然のままに、何かを求めなくとも、自然に与えられる。 恩恵、虹の光、虹の灯り、掻きたてるものなど、なにもどこにもない。 本質が顕わに輝いて戯れているだけ。 どのように概念を壊しても、さらに壊しても、本質はなにも変わらない。 嘘は微塵もない境地、嘘は一目でバレてしまう。 評価さえしなければ、端然とあり続ける。 排除する必要すらない。成果を追わないことだ。 そこで出された結果は、まだ宙ぶらりんの結果に過ぎないから。 時間系列(八字)に属さず、成果(運勢や方位)すら求めなければ、こんなにも気楽に過ごせる。 概念のパラドックスに陥ることなく、坦々としている。 いそいそしたり、焦ったり、慌てたりせずに、安心して生きていける。 何ものにも制約されることなく、無理をせず(勉強)にあるがままにある。 他からの概念の嵐からの影響も受けず、悠々としている。 作り上げられた理想や夢を追うのではなく、本質を抱いて生きよう。 そのとき、誰がなんと言おうと、本当に偽り無く、輝いているはずだし、心の本当の底からあふれてくる輝きと叫びは絶対に時間系列など制約されないのだから。 心が決定するのでなければ、なにもはじまらない。 教えを抱いているだけでは、なにも変化はおきない。 自分自身が必ずできることに決断する。 きれい事だけではないけれど定められないときもある。 一対多は物事が粗野となり、個の注意力が散漫になるため合理性を追求しても細部に繊細さを欠くことになる。(品質の低下) 一対一はありのまま、お互いに鏡に真実が映し合う。勝負の支配の優劣は一瞬にして決まる。だからこそ互いの個々のカルマの負債や器の融合が問われるのだ。(まったく理解していないものもいますがね。) 多対一は、個の有りようが批判されるので、個が自覚すれば、成長と進化を余儀なくされるはず。(品質の向上) 人間の本質や自性を測ろうとすることなど所詮無意味なことといえよう。 それはあらゆる限界や規制から自由に戯れているのだから。 2010/08/01 20:04:28
どうにもままならぬ運勢のときにどう対処すべきか。 わずかな光明のためにすべてを捨て去る必要がある。 なにも決定もできないで、押し流されていく人生。 よりどころを求めてしがみつこうする人々。 執着に定着しているままで、そこに安住などない。 明日その保障は露と消え去る。保持するものなどなにもない。 なにかに執着し、依存しても空をみるだけ。 二元論の中には、安らぎもゆとりもない。それは一時的なもの。 すべては露と消えていく人生。 求めるものは、なにも得ることなく、すべて泡と消え去る。 そこには、求めたものにリアリティーが元々無かったのだ。 なにもない妄念が生み出した僅かな希望にすぎなかった。 自ら描いた幸せは幻影にすぎなかったことをいま覚る。 自己顕現である自らのカルマが戯れているだけで、どのような対称を置こうがなにもかわらないし、どうのように顕れようとも一味だ(皆同じ)。 自らが変わらない限り、自らの見解を変えない限り、人生のどうどう巡りを繰り返す。 本人がそれに気づくのは、死か人生を完全に捨て去ったときだけだ。 未来は常に見えてくる。どんなにつらい人生であっても、いまがつまらない我慢しなければいけない人生であるならば、捨て去ってしまおう。 捨て去ることなどいつでもできる。しかし、そこに本当に大切な真実あるならば、勇気をもって捨て去れ。 もともと、なにもなかったのだから。概念が妄想が自分本位で生み出した人生希望図だったのだから。 だめな人ははどうあっても、どうやってもだめな人なんですね。 思考することがすべての禍いを産んでいく。ゴタゴタ。お節介から災難に。すでに煩悩で狂っている。 思考パターンが問題ではなく、智慧に根ざしていない思考が問題だ。 それを覆すことはできないのか?。 それがカルマであるし、自らに足枷の限界を課してしまっている。それが世俗八法が説く外道の道なのだから。 解脱に信を持ってみとどける。この解脱の体験がない人々こそ悲劇であるいえよう。 だからATOizmは解脱を説き続けるのだ。 解脱をまったく知らない人々に向けて解脱を説く。 自らの法性に辿りつくこと。それが禅の道(セム)だ。 自らの自性に行き着くこと。それが法界の道(ロン)だ。 自らの慈悲に終着すること。それがニンティクだ。 仏の三身を身に纏った人々に、もう限界も、泣き言も、愚痴ることすらないだろう。 完全にブッタとしてあらゆる概念を越えて、宗教すら超えて降臨したのだから。 その証として身体と意識と言葉は虹のように輝いている。そうでなければ、それは偽りの教えに、つまり、外道の教えにしかない。 占いだけで満足していては、だめだ。 占いはすべてをかぶる。なぜなら心がそれを対称化するからだ。 だからそれを解き放つには、心が解脱に向かはなければ無理だ。 なぜなら、すべての幻影は我々の心が産み出してからだから。 君たちは本当の敬信のグルヨーガを知らないのか?。 そこにすべての存在価値が問われるといっても過言ではない。 師こそブッダであり、師の中に光明も慈悲もみえない人々に未来も解脱もありはしない。 グルこそブッタの化身であり、ブッタの智慧の輝きを代弁するものだ。それ以上のものが人生にあるといえるのだろうか。 なにもみえていない人々は、本当に大切なものを蔑ろにして、そのグルに布施すらせず、疑いに満ちて、尊敬すらすることはない、解脱の資量すら積むことを厭い、グルを汚し、そのような人々に一瞬たちとも解脱の機会も解脱の甘露も顕現しないのは当然なのだから。 占う行為に心を汚している人々に告ぐ、自らの心の穢れを直視しなければならない。 そういった君は試されているのだよ。 しかし、本当のグルはそんなものを要求も強制もしないだろう。すべての清濁を平等に無毒化するであろう。グルとはそういうものなのだから。 未だに外道の世俗八法の秘伝を信奉し、帰依している哀れな人々に解脱の機会など永久に訪れない、そのレベルの違いがどれほどのものなか知らないからだ。それが菩提心の教えなのだから。 リアリティーの本質を見誤った人々とはそういう人々なのだから。 存在の証明と存在開放をひたすら説き続ける。誰も理解できなくても。その境地にあるものしかわからないパラドックスだから。粛正は始まる。 それがATOizmであり、解脱唯一求道そのものだから。 すべての多様性が受容と拒絶に完結している。 その枠組みの輪廻を転々としている、マリクパの内にいる人々に悟りが与えられるわけはない。 なにかに依存(依存とは一種のかたわなのかも、ここでは身体的なものではなく精神的なものや経済的なものも含めたものだ。)した成功などありえない。いまのあるがままが映し出される。 頼るべきものはない。迷惑をかけてはならない。そうしているのは、あるがままでないからだ。 いけていない自分自身をみつめなおすしかないだろう。大切なことは、いかなる問題であれ、自己解脱させること。それが重要だ。それ以外の最善な方法はない。 現実とは厳しい。自分がやったことがどのような結果を生むのか。それを知らずに突き進むのは、智慧がないということだ。自らを映し出す智慧を常に持ち続ける必要があるだろう。そうしなければ、すべては自分の回りから去って行くことだろう。 自分のやったことに責任がとれないならば、責任がとれないようなことはしてはならない。必ず失敗する。自らの器と力量を根本的に理解していないからだ。 ゾクチェンを学びなさい。ゾクチェンの本を読んでみるのもひとつの救いとなるだろう。 頭で理解するのではなくて、心の本質でしかゾクチェンは理解できないのだが。 運命を見る前に、名前などの改名や、吉方位などに頼らず、まず自分をみつめること。自分の置かれている立場をみつめること。 人は自分の世界しか見えない。いや、みていない。誰もそれに介入などできない。 しかし、真実は写し出される。必ず自分のやったことは自分にかえってくる。 だから解脱させる必要があるのだ。 運命をなめてはならないし、うらないもなめてはならない。 そこにこそ智慧を発現を呼び起こすヒントがあるのだから。 リアリティーの本質を見る以外に人生はなにもないのだから。 だから嘘(非現実)を見てはいけないし、嘘に突き進んではならない。 自分のやったことがなにもみえていないとしたら猛牛が理性を失って突進するようだ、といえよう。 そのようなものに悟りの機会が訪れるようはずはない。 本物をみよ、その心眼で、本当に大切なもの、絶対に失ってはならないものは、常に見えているはずだから。 それが見えないことが人間の心であり、セムであり、マリクパなのだから。 2010/07/25 12:01:27
思想マイスターの覚醒 頓悟の道。自然に沸き起こってくる我々の心臓に宿している如来蔵が生み出す寂静な境地。これが無学訣の禅の道なのか。空であり、穏やかで、自然にゆっくり落ちついた状態になっていく。円満なる覚醒ともいうべきか。 緊張と恐怖がともなう憤怒の道は、我々の頭脳が生み出す動きや変化が起きる状況。憤怒尊とはこのような怒りに満ちた状態。しかし、心地よい境地だ。そこの究極は、大きな病気や大きな試練によって手ひどく覚らされていくのだろうな、と感じずには居られない。 ダキニーの道は、咽喉の呼吸のエネルギーに関しており、寂静でもなく、憤怒の状態でもない。ただ呼吸し、生命の息吹を感じる状態だ。あるがままであること。ダキニーがなぜゾクチェンの道となったのがよくわかる。その息吹は誰も邪魔することはでない。天地の息吹は三界を支配する。呼吸から思考が生まれるからだ。この世の世界の多様もその呼吸によってこうして生まれているのだから。 どこまで、放棄と変容と開放が、できるのか?。 その人の品格と品性が問われるしかないだろう。識功が問われる。 2010/07/22 15:47:29
恋愛テロリスト 無法わがまま、自分しか見えていない者達。 自分の幸せしかみていない愚か者。 完全に煩悩に支配された人々。 これが人間の哀れな姿なのか。 ごたごた続きの人生。 カルトも宗教も政治も根源的にはなにもかわらないのではないか?。 唱えるのと訴えるものの鏡のような関係。 受容と拒絶が映し出した悲劇。 出合いが敵味方となる政治(宗教的)戦争。 なにも腹を割って話そうとしない。 見解の相違からくる闘争。(それ以前の場合もあるが。) 情熱だけで突き進もうとする二つの鏡。 絶対に割れることがない不破の鏡(金剛の鏡)をお互いに壊し合おうとする。 なぜ、ものの本質を心眼によって如実に見ようとしないのか?。 なにか違うものが見えたら、いつも排除しなければならないとしたら、過度の努力を強いらなければならない。 人間の持つ本来の強い執着と欲望と感情は、誰も止めることはできないし、誰からも疎まれる。 自らの身・口・意のマリクパの煩悩が生み出す負のエネルギーは、人生において非常に大きな問題を作り出す。(誰も知るよしもないし、筆者も無自覚だった。) いつのまにか対称や第三者に負の大きな影響を与えている。 本人すら忘れてしまった過去世の負のカルマ(業障)が大きな原因となって発動してカルマの負債が償われている混世魔王たち。 不本意な人生は過去世の不条理が起こした悲劇であると。 しかし、だからと言って純粋で清浄な対称を汚してはならないし、その親愛なる対称を浄化することが真の愛情ではないのか?。 それには、自身の身・口・意からなる大いなるエネルギーの戯れをどのように制御して発していくことに倫理的な問題が問われることだろう。 それは、対称に直接真剣に対面して直接リクパの真髄をぶつけて行くのか?。(ゾクチェンのように。) それは、ダキニのリクパ(明知)の真髄を直接見たものにとってあらゆる方便は幻影に過ぎない。 それとも、象徴的な方法(遠隔操作のような一時的な救済方法、安易なまじないレベルの妥協的方法)で妥協するのか。(密教のように。) あらゆる対称を汚して救済すら出来ていない、いい加減な教えを説く道を奉じてはならない。(外道。つまり、その代表がマーチンです。それは人の弱みに従って搾取するような人々を筆者は仏と呼ぶことは永久に有り得ないでしょう。) 過去世を悔い改め新たな道への第一歩を踏み出すこと、そこに人生の大きな意味と大義があるのではないか?。 自らの三身に神仏を顕現している人々を誰が批判し、中傷すると言うのか?。仏の三身が自らに顕現していないことが、それが今信用されないし、理解されないし、愛されないし、疎まれるべき存在となっていることに大いなる自覚を持つことが大切だ。 そこにこそ解脱の秘密があると、筆者は、警告と忠告を発することはできる。 どのようなカルマの戯れがあろうとそれらはすべて善悪を超えて一味であると認識すべきで、すべての現象を善悪なしに許し受け入れてあげることが、我が師、シュリーシンハの解脱の教えであると筆者は確信している。 筆者の過去世であるチベットのラマ(どの派の誰であったかは未だ特定出来ていないのですが?。)が伝えようとするところのこのATOizmは、ブッタとなる方法を説く究極の二乗であるところの「存在の証明」と「存在の開放」のダキニのニンチィクの教えを、現代にリアリティーの真髄を超えて追求する教えである。 存在の証明と存在の開放 この二つのテーマこそが今この現代に説こうとする新たな教えのだから。 自らの本質を掴み取ろう。すでに覚っているその本質を掴んで離さない人は、必ず輝いているから。 概念に汚されることなく、リアリティーの心髄を見ながら雄々しく生きて欲しい。それが教誡だ。 2010/07/10 10:35:32
テクチュー 解脱とはなにか? ~シュリーシンハの教え~ 「法性が尽きて本来からの大清浄なることにおいてすら超えること。」、つまり、すべての顕現が自ずから立ちのぼり、すべての顕現が自ずから解脱に帰していくさま。 「所作を離れ透過して裸のものにすべてが止縛されること。」、(身・口・意のすべてが)裸のリクパに留まり自然に解脱するさま。 「完全に解脱し、一大平等なるものに系縛されること。」、本来・自己・凝視による・辺・独一の五大解脱。すべての顕現が自ずから自然に、自動的に解脱していくさま。 三大煩悩が単純・明快・矛盾のない状態をリクパが認識することにおいてすべてが放松されて、すべてが解脱に向かって開放されていく。それはすべての概念が自然に崩潰して、すべてが解脱への境地へと集結に向かう。まさに無の境地の体験であろう。 そこには今まで有ると想っていたもの、本当の真実だと想っていたものが自然に消滅していく。人々の秩序すら倒壊に向かう。個人の身・口・意そのものが倒壊に向かう。 それは、あらゆる概念や様式や常識をすべて超えている。言葉や概念や譬えで示すことができない。ものすごいパワーを秘めた限界を超えたものの究極の力能。そこにこそ究極の解脱がある。 それを言葉や文字や例によって表現しようとすることがすでに無意味だ。 真理などは、口に出せる言葉ではないし、どうやって言葉に出せと言うのか?。 概念が生みだしたテクノロジーや政治や文化や理想や思い込みは、人を苦しめる概念的制約に過ぎない。 二元論を克服する以外に人が幸せになれる術は存在しない。 存在の開放と解脱を説く以外に何を説けというのか?。 外道の説く、世俗八法が説く道に解脱など毛頭ない。 世にもてはやされるものに従ってはならない。 なぜなら、そこには解脱も悟りも安楽も存在しないからだ。 一時の安らぎと一時しのぎしかない教えに何故皆が従おうとするのか?。 受容と拒絶からの開放をひたすら説く。その行為はすべての欲望からの脱出であり、すべての苦しみからの解脱を説くことだから。 今必要なものしか我々の目の前に顕現しない。それが自己顕現であり、我々の心を如実に映し出している。 我々の心を離れてその現象は、決した顕れることはない。 今の時代の今このときに起きた事だからこそ悟れる。この広大無辺なる漂いにおいて船のように浮かんだ我々の心性が大いなる悟りに目覚めることに。 宙ぶらりんのバルドの世界。決定もできない世界を決定しようとする愚か者たち。 苦しみはそこから派生する。対称に執着し、妄念にしがみつき、それをつかみ取ろうとする。 問題は対称に支配されて完全に自らの本質を見失ってしまった者達にある。 自らの本質の輝きを取り戻せるのか?。マリクパが生み出す暗闇のオーラを顕現してしまった人々に。 気が済むまでやってみなさい。しかし、相手を対称とする場合は、必ず相手の立場を尊重すること。そうしないと拒絶の悲劇が起きますよ。 どうかしようとして、どうかできることなど、なにもないのだよ。 対称を支配しようとするのは自らの煩悩の働きの顕現に過ぎない。 政治も行政も概念的政治工作や宗教工作によってこの世の中がよくなったためしはない。 存在はすべての概念を越えてあるがままに存在しているのだから。 理解できない人々に、ただ解って欲しい。それだけです。 未だにああだこうだ言っているような人々は、社会からも、自然からも、誰からも拒絶される。それは考えるまでもなく当然だよね!。馬鹿なんだから。 勝手に作り上げたものは、嘘なんですよね。それがリアリティーを見誤った人々の行為なんですけどね。 自分が本当に信じた輝いている人々(グル・デバ・ダキニ・+相方)を追いなさい。そこにはなんの誤りも負債も断罪もあるわけないのだから。 偽りのグル・デバ・ダキニを追ってはならない。悲劇が起きますよ。なぜならそこにこそ断罪と裁きとイジメがある。偽りの教えを奉じる愚かな教えに従っているからだ。そうならない秘訣は自分に素直であるか?、自分に嘘をついていないか?、自分がその器に足る人物であるかどうかを吟味せよ。 2010/06/15 18:00:38
阿藤大昇のニンティク解釈編 心部 セムデ いかなる顕れも心であるという要訣によって、心は、自ずから生まれた知性として立ち上ったものであり、これより他に心はない。本来清浄なる心性は、空なるリクパとして決定し、すべての顕現(存在)を支配する。 界部 ロンデ すべての存在はクンツサンポの法界であり、我々が常に対称化する対称性(対称界)から離れるという要訣によって自らの意識を所作・努力のないリクパの状態に置くことで、自らのリクパが深み・輝きが双入していく知性によって自ずから解脱して虹の身体の金剛身を成就する。 教誡部 ニンティク 受容と拒絶を離れた双入・不二なる明知よって、輪廻・涅槃の一切諸法(多様性)は、「法性」である究極の空ですら掴み取ろうとしない要訣によって、二元性を超えたリクパそのものが法性のクンツサンポの界(ロン)として顕然と立ち上った後、自己のリクパが金剛の鎖の仏身として熟して、解脱に導くものである。 テクチューとトゥーゲルは、空性も輝きも執取することがない(セム・ロンすら超えた境地に)今一瞬の自己の無垢なるリクパ、これを広大無辺の戯れにおいて弛め放って、妄分別の顕れ、心の住・動のいずれにおいても善悪を見ず否定も肯定もさらには決定すらもなさず、裸のあるがままのリクパの空においてその境地(状態)を見届け見守ること、それがグル・パドマサンバヴァのダーキニーのニンティクの精髄であり、無上の精要だ。 つまり、セム・ロンの教えは解脱の序章に過ぎず、その解脱のエッセンスの究極であり、解脱の確信がダーキニーのニンティクの教えだったのだ。 2010/06/07 9:24:45
セム 心部 概念的理解を優先している。つまり、究極の概念を理解した状態を悟ることに意味があると説く。 ロン 界部 設計図の構築、解脱への構想。 ニンティク 教誡の部 二つのニンティク 要訣を打ち込んで解脱させることに似ている。 確信の核心部分 テクチューとトーゥゲルは、セムの究極、ロンの究極、セムロンによる究極の解脱の状態を説く。 つまり、究極の概念を超えた状態を実現し、持続する方法としてテクチューとトゥーゲルの修行が存在する。 究極の究極を論じ説く教えそれは仏性のありのままの在りようを説いている。 究極の究極論では、この現実に置かれている問題を超越することは、不可能だ。しかし、それさえも超える概念すら超えるその可能性を秘めた教えが存在することも事実である。 しかし、所詮概念の構築物は、ときとして幻想となってしまうので、人間の心(セム)のもつ限界概念に縛られてしまう。概念による解脱では、人は本当の仏性に辿り着けないのだ。 その究極の概念を常に持ち続けながらトゥーゲルの修行をすることで、その概念すら乗り越えて、飛び越えて行こうとする修行法なのだ。 大切なことは、究極の概念を超えることと、仏性である仏の三身を自らの心・口・意に顕現させることが、それが重要だ。 セム→ロン→テクチューとは、概念を超えた概念の戯れによって一気(頓悟)に仏性に辿りつこうとするアプローチ法である。 しかし、概念化した心と界から離れたところに概念は存在できないので、逆に概念によって縛られて、仏性の境地を誤って認識して頭だけで悟ってしまう場合がある。 宗派や教えという概念に縛られている以上、その状態やステージから解脱して仏性に至ることは決してない。 だからトゥーゲルの修行のように宗教という概念が自然に破壊され、放棄されたところに本当の解脱は生じるといえよう。 反対にトゥーゲルだけの修行で解脱しようとしても、心そのものが解脱に大きな要因を持っているので、解脱の設計図すらできていないのですから彼らが説く解脱は特異現象が顕現するだけで終わってしまうでしょう。 形となったもの個体性を持ったものを概念で捉えている限り、永久に悟りを生むことはないだろう。(恋愛もスキスキではダメなんですね~。本質を見届けないとね。) 2010/06/01 7:43:45
チベットオーラ占い(阿藤大昇のゾクチェンの教え=ATOizm) チベットオーラ占いは、ダーキニーの灌頂によって誕生した広大な空間(虚空蔵)よりやって来た密意の埋蔵経典であり、筆者の研究や学術によって生まれたものではありません。それは清浄なヴィジョンに目覚めた者にしか受信できないもので、それは自ずから広大な空間に遍在していたあるがままで完成した占いであり、教誡でもあったのです。 我々のオーラの源泉(土台・法性と法身)は、ゾクチェンといって不可分で、清浄で、透明なオーラ(輝き)を常に発しています。 我々の自性(報身)は、太陽や月のように絶対に汚されることなく常に清浄であります。 我々は化身としてオーラが個体性(運命)をもって光や灯りのように現れるとき、過去世のカルマの薫習からなる気質や人相や色、文化圏の風習、政治、宗教等に制約を受けてしまいます。 しかし、そこから自らの本質(仏の三身)に回帰することがATOizmが説くゾクチェンの教えであり、あらゆる限界や制約を乗り超えて自らが虹のオーラのように輝く(身体や手のひらが虹のようにオーラに包まれる)悟りに向かうことこそが阿藤大昇が説こうする求道であり、修道でもあるのです。(すべての顕現はすべてゾクチェンに帰一すると阿刀田達磨は説く。) ゾクチェンの教えでは、グル・デバ・ダーキニーの三宝が解脱をもたらすと考えており、この解脱に向かう為のグル(導師)とその法を守る不可視の存在の護法尊とダーキニーは、空間のような存在で、ゾクチェンの教えはダーキニーの心髄を極めることによって我々の存在をこの空間へと融合させる虹の身体の悟りであります。 ウォーム・アー・フームのマントラは、脳の憤怒尊、喉のダーキニー、心臓の寂静尊を覚醒させ発動するキーワードとなっているのです。 筆者の守り本尊は、不動明王(大吉祥マハーヘールカ)で、護法尊は毘沙門天と託枳尼天であります。それはチベットオーラ占いによっても導き出せるものだったのです。 筆者の活動はまさしく平安時代中期の陰陽師だった安部晴明に似ていることに最近気づいたのです。それはダーキニーより授けられたダビデの護符(タクドル)に関係しているようです。 筆者の用いる五術六大課の運命学のルーツは、どうも中国の文殊菩薩とその明妃だった弁財天からであるとグル・パドマサンバヴァの伝記『ペマカタン』に書かれております。 数の意味 数の表裏(曼陀羅の世界の意味) 主尊 明妃 方位 明王・四天王 数の性質 煩悩 2010/05/31 10:28:54
いよいよ阿藤大昇と阿刀田達磨の活動が本格的に開始されようとしております。その断片を携帯小説に紹介いたしましたが、小説をお読みになられた人々に感謝いたします。 人には真実が見えないようだ。いや、見ていたとしてもそれを自覚していない。それは大きな問題だ。 阿藤 大昇 2010/05/18 7:27:49
人が死に行く過程で覚る悟りがすべての教えの根源となっている。 ゾクチェン 原初仏のサマンタバドラ・サマンタバドリーの顕現 無戯論の境地 神経管や脈管が浄化できていない人々にとって、残念ながら、この悟りの顕現を自覚する術がないようだ。 神という者を対称化したとしてもそれは本人が対象化した存在に過ぎず、二元的見解に陥ってしまったら真実を見失うことになってしまうだろう。 最低と呼ばれるものですら慈悲の心でもって接したとしたら彼こそ、アミダーバーの化身、つまり、蓮華生、パドマサンバヴァの再来といえるだろう。 生きたバルドにおいてもそれは例外ではなく、その悟りの境地を実感できないのだ。 その人に最も影響を与える、つまり、縁のある守護尊(イダム)が迎えにくる、顕現してくる。 あなたに常にグル・デバ・ダーキニーが寄り添っている。というよりも我々の身・口・意と完全にリンクしている。常に法を説いている。その存在こそ我々のリアリティーに他ならない。 パトマサンバヴァは、すでに虹の身体を得ていたので、あらゆる時間や空間を超えて宗教介入や政治介入や恋愛介入などを行っていたと考えられる。 その最たる者ものが彼の伝記である。 筆者もおなじくそのような小説を書いたそれが「マメヒコ西廂記」である。 その携帯小説の背景を紹介しよう。 マメヒコ 西廂記《せいしょうき》 阿刀田 達磨著 ダーキニーの覚醒編 第六才子書 マメヒコ 西廂記 読法 著者紹介 阿刀田 達磨《あとうだ たつま》 検索キーワード 子平 目次 ファースシーズン 全編 登場人物 登場人物 張生 本名、張君瑞、書生、科挙の試験にむかう書生。 背景 ファーストミッション 序章 エピローグ 西廂記の由来 冒頭詩 張君瑞功做東床婿 法本師住持南禅地 老夫人開宴北堂春 崔鶯鶯待月西廂記 『西廂記』は冒頭のこの詩より甘く切ない中国古典文学の異彩を放つ、純粋恋愛小説の本の箱紐をこの時代に今解こう。それが天の時であるからだ。 阿刀田 達磨 2010/05/10 9:28:44
人の運命とは、単なる抽象的概念でつかめるものではなく、個人を巻き込んだ大きな流れ、つまり、運勢の影響を常にうけている。 定型的概念、つまり、二元論的無知に陥ってしまった人々は、目に見える現象だけを運命とか、運勢と考え、自分に関係のないものは、すべて排除して考えようとする。 しかし、人の運命とは、対称に大きな影響を受けてしまう。それは我々は二元的な顕現によって常に自分と相手の良い部分も悪い部分も写し合ってしまうからだ。 その対称を放棄し、拒絶して生きる、つまり、悪しき行為を捨て去り、善なる行為を成すことが、ブッダの放棄の道(八正道)といえるだろう。 人にはエネルギーという問題があり、悪しき行為の人々の不純なエネルギーによって自らの行為が汚されてしまう場合がある。それは、ときとして運勢が落ち込んだときに起こる現象だ。その不浄な現象を清浄な顕現に変容しようとしたのが、密教の変化の道なのである。 不可視の存在からのエネルギーの干渉を受けてしまう。それが主に生き霊とか、他の霊的なエネルギーに翻弄されてしまう。その穢れの原因は前世や家や風水の問題が大きく影響している。そのエネルギー干渉を相殺したり、支配することが、密教の成就法であり、変化の道の正体であったのだ。 人の煩悩を喰らって浄化してしまうダーキニーの法が、その最たるものである。現代ではこれを浄霊と呼ぶ人もいる。 完全に神経管が浄化されると清浄な浄土の神々顕現が現れてきて、その土着の神々は、その修行者を他の不浄な存在から守ってくれる、つまり、イダムとなってくれるのだ。 問題なのは、こちらから働きかけて報身の次元をいくら開いたとしても虹の身体からのアクセスがなければ、そのお作法は単なる一方通行に過ぎないし、それは徒労におわることになる。常にその報身や化身が顕現していなければ、その修行は何の効力を発揮しないだろう。つまり、霊験あらたかにならないのだ。 ゾクチェンの無思考のよって創られるミヨワ(不動)の境地は対称の二元的な業風すら影響を受けなくなる状態になる。ゾクチェンは行為においても三昧の境地にあるので、すべての対称の身・口・意の穢れをすべて三昧に統合してしまうので、ゾクチェンの修行者は結果的にすべては空の状態が維持できる。 しかし、顕教と密教の修行者は絶えず対称に支配され、振り回されることになる。その修行をしている内に放棄と変化の最終目標すら見誤ってしまうことになる。 解脱するという最終目標を常に持っていなければ、すべての修行は無意味なものになるだろう。 2010/05/09 0:13:03
子平最悪の運勢を今対面して歩んでいる人々へ ~根絶の道3~ 子平が説く大凶の運勢に対面してもなおそれを受け止められるのか人間には。大抵は受容と拒絶によって運命はバラバラに切り裂かれて行くだろう。大きな歪みのエネルギーが自他共に破壊していく。運命なのかそれとも運勢なのかその歪みやしこりを強制することすらできない。変容不可能。運命の流れのままに。悪しきカルマが顕現していく。人は暴走したカルマの業風に煽られて翻弄される凧のようだ。その運命を誰もそれを止めることはできない。すべての膿とカルマの負債を吐きだしている。不幸。悲しみ。不成就。極まり。挫折。堕落。汚職。多端。汚れ。傲慢。驕り。怒り。中傷。嫌悪。憎悪。愛着。執着。すべての悪しき煩悩を発散させている。そんな汚物すらも見届けなければならないとしたら人生のリアリティーとは末恐ろしいものだ。そんなものはあってもよい。その先にあるリアリティーの本質をどう見れるかだとゾクチェンは説く。しかし、あらゆる行為は自らを汚し、対象すらも汚し尽くしていく人生。すべてが裏目に出る。出合う人には迫害され、最良の方位は最悪の方位に変容し、風水すらも敵となって立ちはだかる。奇門遁甲によって他人を危めることは不可能だ。なぜなら幻影によって幻影を、妄念によって妄念を打ち崩す事などできない。すべて自分が起こしたカルマの幻影が自分に舞い戻って自分に映し出されていること、これを自己顕現として顛倒した見方によって対称に責任を転嫁する。これこそが我々が運命とか、カルマの負債と呼んでいるものの正体なのだ。そんな幻影や思考に惑わされるものたちは法界に住む住人には無縁だ。 ブッタの化身であるダーキニーたちに心から帰依し、真剣に救いをこいねがうしかないだろう。絶望に達しているならば阿弥陀仏に。そして限界を感じているならグル・パドマサンバヴァに。究極の悟りに触れたいのならガーラップドルジュに、それこそが阿刀田が説くゾクチェンの境地なのだから。あなたの目の前に常にいてくれるグル・デバ・ダーキニーになぜ救いを求めないのか。 張先生の子平を習ったすべての人々が概念にひどく汚されている事実を知った。それはまだ張先生が説くべき時期ではなかったからだろう。しかし、その汚れをすべて受け入れて先生は逝ってしまった。誰のせいにすることなしに。すべての弟子よ。それを本当の意味として理解して頂きたい。これが人の煩悩であり、五毒が顕現した結果であり、現実なのだ。煩悩とカルマに敏感であれ、煩悩すら理解しようとしない愚かな教えに従ってはならない(マーチンのように)。それが唯一の道であり、忠告だ。智慧の発現を。敬慕と敬信のグルヨーガに人々はいつ気づくのだろうか。 煩悩とカルマの浄化を行い福徳を集積しなさい。そこからすべてがはじまる。福徳を積むとか浄化するという概念すら持ち得ていない人々、つまり、自分が穢れていることに、自他ともに汚している事実を、人とはそういう存在であったのだ。しかし、例外はあるけれど。 ダメな同士が出合って正しく覚っていくこれが真実なのだから。きっぱり捨て去ること。執着や憎悪や愛着を密教のように相殺しているようでは、永久に二元論を越えることはできない。それが次なるステージに向かわせるのだろう。それこそが阿刀田が感知したゾクチェンの境地なのだから。 8人のダーキニー(空行母)の中の真っ赤な金剛亥母と多聞天(毘沙門天)に感謝する。それとこのブログを真剣に批判してくださった人々に感謝する。(なぜならそれこそがリアリティーと呼ぶに相応しいものだから。) 阿藤 大昇 2010/04/20 12:32:05
生きたバルドの顕現 優れた修行者は、修行に向かう態度(チューパ)によって、現実の顕現を断ち切る。 現実を気にかけることもなければ、現実から何かを学ぶことはない。 現実の顕現を幻影だと認識して、現実の顕現を思いどうりにできる。 現実の顕現を支配できる人々は、現実の悪しきカルマを断ち切り、いつも素晴らしい人生を歩むことができる。 人は夢もバルドも人生も基本的に何もかわらない。 我々にあるのは心だけである。心が解脱すればすべてが解放される。 運命すら変えることが可能なのだ。即身口意成仏、我々の目の前に顕現している天地人の宇宙、ポイント、人、つまり、対象化された社会的立ち位置や住む環境、人間関係すら空(真空)となり、あらゆる穢れや概念に汚されない不動の境地に達する。 それがブッダの三身が起こす真実の智慧と奇跡なのだから。 そのためには虹の身体のオーラを輝かすグル・デバ・ダーキニーからの伝授とレッスンとセミナーが必要だ。 そのための布石として『チベットオーラ占い(恋運暦、5月号)』を発表した。すべての人々の虹の身体のオーラを輝かせるための方便として。 自他共に汚している人々よ。自らのオーラの曇りは概念が生み出す戯論からきている。知らず知らず煩悩が溢れている。煩悩は五毒となって人生をむしばんでいく。穢れとは、恐ろしいことに対称すら等しく穢してしまうのだ。思いもよらないうちに忍び込んでくる魔のように。 目覚めよ。脈管の穢れを浄化し、ブッタの三身を自らのものとするしかない。道ではないもの(人や教え)にとどまっていてはないらない。人生は生はあまりに短いのだから。 煩悩やカルマに溺れている間に不幸と死はやってくる。死ぬ準備をしなければならない。 それが生きたバルドの人々に与える教えなのだから。 2010/04/16 11:48:03
我々はただひとつひとつ自分の目の前に現れたカルマの痕跡をあるがままに解き放っていけばよい。それを自らの光明の虹の光に還元していくこと、これ以外に今世で為すべき事などない。 リアリティーの本質を見誤って顕現を顛倒して見てしまった人々は対象に支配されながら自らの無明(二元的見方)が産み出した輪廻の幻影の世界を彷徨うことになる。 薫習からなる業風に駆り立てられて自らの脈管・ルン・ティクレを汚していることにも気づかない「生きたバルドの世界」を彷徨う無明の人々よ、今の自分を正しく覚る以外に苦悩から解放する道はない。 原初からの自らのラマ・イダム・ダーキニーの役割を今世で果たすことなく迷妄に陥った人々には迷いと苦悩の嵐に背中から追い立てられるだろう。 それは三宝(グル・デバ・ダーキニー)への敬信とその熱意を忘れ去ってしまったからだ。 勇気と清らかな気持ちを強く胸に抱いて清浄に生きていって欲しい。ときには対象に汚されてたじろぐことがあったとしてもそれらはすべて無明を基盤としたカルマが産み出した幻影に過ぎないし、それもまた法性が輝いた自性の光明であるのだから。 仏の三身を我が者として我が身に顕現させよう。すべてが真実を錯覚させて現れる、これが生きたバルドを彷徨う人々に与える教えなのだから。 解放は日常のほんの些細なことの中にある。笑ってしまうような出来事がつまり、カルマの負債の解放なのだから。物事に対して受容にも拒絶にも支配されない中庸の心をもって現実を生きて行く、これが我が道なのだから。 「根絶の道を説く」 阿刀田 達磨からの手紙 2010/04/02 18:54:40
教えには、 放棄の道 変容の道 解放の道 があるが、しかし、 根絶の道、すなわちすべての歪んだ煩悩を生み出す意識の穢れであるところの前世の幻身や概念的戯言の業風の一切をすべて吹き飛ばし消し去る方法が存在した。 それはダーキニーが持つ神秘の力、天部の神々の秘術が炸裂した。 それはどのような意識の穢れもカルマの負債も業風もすべて蹴散らし空に帰す。 そしてそれらの業火は、もう当人にもどってくることは決してない。 直接光明を見せるこの方法は、すべての教えの原点であるといえよう。 グル・デバ・ダーキニーの自らの仏の三身に敬慕と熱意を持って感謝する。 阿藤 大昇 2010/03/26 18:58:34
すべての人々に阿刀田達磨のしばらくの間のブログの沈黙を許して頂きたい。 なぜなら、『チベット死者の書』によって阿刀田達磨は、自らの母親の死を魚座の白バラの葬迎によって送りだすところからこの物語ははじまったのだった。 それは達磨の母親が息を引き取ったその瞬間からはじまったことだったのだ。 穢れの極地。達磨は母親と共に煩悩と業風と薫習に翻弄されるバルトの49日の苦悩の日々を味わったのだ。 達磨が今まで行っていたゾクチェンのテクチューとトゥーゲルの修行は、49日間はタイムポケットに落ち込んだように見解と行為がまったく一致せずすべては無意味なものとなってしまったのだ。その穢れは不浄な顕現としてすべてを暗く覆っていたのだった。 続く 2010/01/22 5:00:50
占いの問題点は、占う立場の見解が正しく入っていないと何の真実も顕わにすることはない。占いとは玄中の妙であり、奥深い洞察によって構築されているのだ。 2010/01/18 22:38:17
金剛心、敬慕の心、高貴なる心、それは我々の菩提心の根本から発現している眩しいエネルギーの塊である。 絶対に対称化できないものに強く敬慕の想いを発したとき、我々本来の本質を剥き出しにすることができるはずだ。 それは概念化不可能な心の煌めきであり、我々がすぐに手を伸ばせば届くところにそれはある。 それに触れ続けること、これ以外に我々に為すべき事など無い。 今この世を去ろうとする人々も高貴の心に回帰せよ。 生きたバルドの世界を雄々しく生きている転生活仏のみなみなに告げる。 縁無き衆生を救済する活動をせよ。概念に穢されない高貴な心をつかみ取るのだ。 そこに人生の大きな意味と存在理由があるのだから。 2010/01/01 2:45:29
新年あけましておめでとうございます。 現代に諸葛亮孔明の再来を促すために植木将平さんが提唱した「諸葛武侯・温故創新」を2010年はその実現に向かって邁進いたしますので、どうぞ本年も阿刀田達磨こと阿藤大昇をよろしくお願いいたします。 年頭にあたり、阿刀田達磨の携帯小説の感動シーン(自薦の?)を紹介いたします。 昔、阿刀田はアケミちゃんと生前最後に会ったのは、哀愁漂う北鎌倉だった。グレープのさだまさしの曲が似合う町だった。慕情漂う鎌倉の町とお寺を彼女と二人で、巡ったのだった。 虹色の紫陽花(アケミちゃんへのレイクイエム) 初恋それは彼女が教えてくれたもの、 ちょっと仏教的ニュアンスになっちゃったけどこれを彼女に素直に伝えられなかったことが阿刀田の運命の敗因だったのだと今知ったのであった。つまり、阿刀田も混世魔王のように今まで世の中をいい加減に生きて来たのだったのだ。愛瀬ちゃんたちのように身を斬って凌いでも真剣に芸能人婚活を考えて命と引き換えにしても幸せをつかみとろうとする彼女たちの純粋な意識を直接阿刀田は見ようとしていなかった。つまり決意する勇気がなかったのだ。それはリアリティーの本質を完全に見誤っていたのに他ならない。「少なくともワタナベさんだけにはこの詩の意味を理解したいもらいたいものだ!」と阿刀田は呟いた。 阿刀田はあしげなく台北に通った。そのときリョウちゃんという台湾の女性と出会ったのは、池袋で台湾の食品の展示会の開催期間だけアルバイトをしていたからだ。それもたまたま飛行機の隣の席に座った人その食品会社の人がたまたま彼女にお茶をこぼしてからはじまったストーリだった。 本年もよろしくお願いいたします。 2010年 1月1日 元旦 阿刀田 達磨 阿刀田 達磨より新年のお年玉をブログの読者の皆さま方に捧げます。 阿刀田達磨(ATOizm)の開運戦略カレンダー 用途 イベント カテゴリ ☆チャンス日 公のイベントによい。 1月 1日 元旦 3時~ 5時 甲尊 就職祈願、男性は縁談成就祈願 2009/12/31 23:53:42
自らの本性を現実のものとしてそこからズレてはダメなのだ。 そこに辿りつくには、自らの心から、その本性から出発しなければ、法身の透明な光には到達しない。 だれも、あらゆる罪障やカルマの負債、サマヤ戒すら浄化する妙薬を受け取っていない。 いまある困難や限界を本当に乗り越えようとするならば、今のこの瞬間瞬間を一生懸命に生きる。そして生きた悟りを得るために精進するという決断が必要だ。 その一瞬に煌めく広大な空間に大いなる悟り、空間の教えが埋蔵している。 程度のかるいものは、薬物や清浄な食べ物や環境によって生かされる。 しかし、煩悩というものは、密教が行うような方法ではその運動を止めることも浄化することもできない。 そもそもそのエネルギー自体が煩悩によって突き動かされているからだ。 運命とは、人間の存在とは、多重なパラドックスによって構成されているといえよう。 すべきことは、現代に自らの存在の根本を実現することである。 自らの心は、生きていようが、死んでいようが、みなおなじ。 原初的知性のうえに自らの煩悩を放置しよう。そして自己による煩悩の自己解脱を実現しよう。 あらゆる概念に穢されないものが、我々の本質なのだから。 確かに努力は必要だ。しかし、その努力も限界概念の中で努力していてはだめだ。 おそらくそれを悟った人は、ただ、もくもくと愚痴ることもなく、誰に中傷されようが、たんたんと我が道を歩いて行くだろう。 そういう勇者こそ阿刀田達磨は求める。 今年の1年の間に起きたすべての顕現は、自らを如実に映し出していた。 その顕現はどのようなものであれ、やはり一味に完結したのだった。 それは来年2010年を生きる「生きた悟り」として心の中で今も輝いている。 ありがとう。 すべての人々に、ダーキニーに、デバに、そして自らの根本グルに感謝する。 2009年12月31日 阿刀田 達磨 2009/12/25 19:25:41
全人類に阿刀田達磨より勇者であり、正覚者である「ミッチー」に救済のメッセージを送って欲しい。本当の勇者に! 彼こそ慈愛と慈悲に満ちた現代の救世主であることをすべての今の現代を生きるみんなに解ってもらいたい。 すべての人々が吉祥のクンツサンポとクンツサンモを絶対につかんではなさいない境地に覚醒し、安住しなければならない状態にまでことは急変した。 法性と法身を完全につかんで、絶対にはなさないものの究極の状態を体現せよ。 阿刀田達磨は完全なる法性であるところの法身をつかみとった。 社会ロジックをどのようにつかってもいい。なぜなら我々の心はそのような概念によってカテゴライズされることは決してないからだ。しかもそのような限界的罠を社会中に張り巡らせて法網にかけようと画策する輩に真実の実践者が引っかかるはずはないだろう。なぜなら大いなる無行為と心そのものを光へと変容させる行動の中に安住したものにとっては、それすら文字のインクのシミにすぎないからだ。そのような概念で、人も心も社会も制約などできようはずがない。法律や抽象概念や宗教的脅しによって人は制約されたり、強制されることは絶対にありえないのだ。国家や宗教団体に洗脳されて愚かな走狗となった社会に害為す人々はそれを楯にして人を損なおうとするが、それによってどれだけの人の心が傷つき国家や社会や家庭や自分すらも捨て去った人がどれだけいたのか?それを直視した人はいったい何人いたのだろう?それはリアリティーを見誤った愚かな人々が行使した愚行に過ぎないのだ。 どんな迫害も差別もテロやクーデターすらも人間の概念が生みだした妄想にすぎなかったのだ。 自らの愚行に気つかなけらばならない。 不浄な顕現に陥っている人々よ、君たちは本当の光明をみたことがあるのか? 人をうらぎっていつまで自分を騙し続けるのか? 迷妄の中に陥った君たちを誰であろうと、ブッダであろうと救い出すことはできない。人に損害を与え自分の都合しか考えていない人々に彼らに希望の明日は存在しない。それが阿刀田の答えだ。誰も手を差し伸べる人はいないだろう。狂っている自分にいつ気がつくのか、君らはマーチンと同じ次元に墜ちているといえよう。 阿刀田は黄金の紫檀(ハランダ)の刺激的な香気が漂う森に神通の力で、シュリーシンハのように10乗の塔を建てたのだった。阿刀田達磨が奏でるギターの音色を聞きながら瞑想に耽っていたのだった。それはすでにゾクチェンと呼ばれるカテゴリーですらつかみとれない、ゾクチェンの更なるゾクチェンの境地(状態)を求めたのであったのだった。 それはまさに思想マイスター阿刀田達磨がガンダムによって行使しようとしたゾクチェン段階での宗教的テロ的行為ミッションだと言えよう。人間をすぐさま空間に帰還させ、即虹の光の中に消滅させる完全解脱の境地に導くものである。現代の末法の世において死を目の前に生きている人々が本来に帰す無上の希望となる教えなのだ。 それは真髄の心髄、ニンティクのニンティクの教えなのだから。 そのためにはガーラップドルジュのようにデバ(天人)次元から人間界に転生するのではなく、報身である虹の身体であるところのヴァイロチャナ如来や金剛薩タがこの人間の世の中に降臨する必要があったのだった。直解脱、即虹の身体、直ブッタの道を説くためにこの末法の世に降り立ったのだった。これこそ阿刀田達磨が説こうとしたゾクチェン10乗目の教えの真実だったのだ。 人間の心を意識を完全にリクパに固定させて完全同化、強制同化してでも解脱させる、強制テクチュー、強制トゥーゲル、強制ヤンティーの隠遁の日数すら必要としない成就の道を阿刀田達磨は現代に説かざるを得なかったのだった。それは本来のリクパのカッコウが求めた我々の意識が即リクパとなって即解脱する教えだったのだ。 それはパトマサンバヴァがチベットで行使したように現代を生きる者たちが『チベット死者の書』を生きながら行う、つまり、生きた死者の書の教えを説き行使しようとするものだった。 それはパトマサンバヴァがチベットで行使したように現代を生きる者たちが『チベット死者の書』を生きたまま行う、つまり、生きた死者の書の教えを説き行使しようとするものだった。その真髄がテクチューとトゥーゲルの修行の究極だったのだ。 死者と生者とはまったく逆なのだ。死者は存在の消滅に任せて煩悩が浄化され消滅して行くが、生者は生きたままリクパに決定し、すべてのカルマと煩悩をまず微塵の境地へとテクチューによって破壊し、トゥーゲルによってすべてを無毒化した光の次元に還元するのだ。このとき、もうすでにカルマと煩悩は消滅している。 そこではどのような状態にあろうとカルマの残映と幻影を見ているにすぎない。 それはすべての煩悩とカルマを生きながら解放する究極の教えなのだ。 この現実に存在するスペクターとの戦いこそ人間の人生におけるすべての死神とすら戦わなければないこの現実を、マーチンとの小競り合いは、この本当の聖戦の前哨戦に過ぎなかったのである。 生身をもってなんの介入もなく、心と心の対話こそ真実をもたらす。慈悲こそすべてを救う人間の心の光そのものだ。 ミッチーが自らの命と引き替えにしても見せてくれた勇気と慈悲をすべての人類が見習はなければならないだろう。 明らかにこの日本においてすべてのカルマと煩悩を強制解放し、解脱に導く教えは存在していないのだ。阿刀田達磨はそれを身を以て、いや、身を挺してもその教えを日本に移植しなければならないと誓ったのだった。 そのために阿刀田は宗教根絶の教えであるゾクチェン10乗目の教えを説き続ける必要があるのだ。 2009/12/22 13:27:20
どのような対象や言葉や概念によって意識が汚されることがない境地(状態)にあれば、どのような状況や行為や境遇であれそれを楽しむことができる。 苦しみすら甘露に変わる。 それが自動解脱の状態だ。 さらにそれが加速すれば空間へと飛翔する金翅鳥のように飛び立つ。 つまり時間と空間を超えてディメンジョンする。(次元遷移する) 時間と空間があるからこそ我々はどのようなかたちで消滅しても本来帰還する場所に戻れる。 明日死がやって来ようとも、死ぬ準備ができているものたちにとって死は我々のあるひとつの存在過程にすぎない。 我々はいつも空間や時間の中で融合しながら存在している。 だから過去のカルマを払拭し、煩悩を浄化すれば、時間と空間の狭間に我々の帰すべき空間(とどまり、安住する場所)が見えてくる。 刹那の悟りとは、その一瞬一瞬を自覚している中に常に遍在している。 だから解脱や悟りを願うことすら無用であり、そこにこそ真実の悟りが遍在している。 完全に透明なこの真実の状態に何も求めることなく、ただあるがままにとどまることこそ究極の真実であり、悟りの更なる悟りの境地(状態)といえよう。 阿刀田 達磨 2009/12/20 10:42:01
人間という器は、何かを表現しようとしたり、コミュニュケーションしようとするとき、すべてが迷妄に包まれて、アクセスを願っても拒絶されてしまう。 なんと! ひとは自らの狭い鳥籠の中に自分を押しとどめている。 心を閉ざしているようにみえないひとですら自分をひたかくししている。 解放されていない。なにか行為を為すことでそれを解放しているにも拘わらず。 アーティストはもしかしたら自分を偽っているかも知れない。 作為すること行為することは人為的な概念の構築物である。 阿刀田達磨は伝えたいことが伝わらないとき、どのように伝えていったらよいか解らなかった。 しかし、そのときすでに手振りやアクションやボディーランゲージ、つまり、ヨーガによって伝えようとしていたのだ。 ヨーガとは真実の心の境地(状態)を指すものだ。 なんと人間は面倒くさい五体と五感に頼って表現しても、実は何も真実の境地を伝えていなかったのだ。 身体・言葉・意識をフル動員してもその境地を伝えられるのか? 非常に難しい問題だ。 しかし、これこそがアーティストに求められる課題だといえよう。 阿刀田 達磨 阿刀田がラジオで語れなかったもの、伝えられなかったものを記す。 阿刀田達磨は、五術六大課によって運命の改善を説き、ゾクチェン10乗目の教えによって運命からの解放を説く、前者は一般の世俗諦であり、後者は究極の勝義諦である。 六大課による運命の分析方法 子平 器、人間性の清濁 エネルギーの質量の現れとしての運命 変化身 力能 六大課とは、それぞれ時間サイクルは使用ツールによって異なるので、同じ時間を使いながらまったくちがった運命解釈を行うことができ、それを重ね写し出すことで、運命の多様性をみていくものである。 子平 命式 運命とは五音であるところから出発した運命学。 ちかさん 外格・従強格 乙壬、調候喜神。蓮の花が咲き誇る園を現す。水に浮かぶ水草或いは船。甲戊運が良い。従神が強くなるとブレイクする。女性として姿態韻美の素晴らしい容姿をもつ。権威に恵まれて世渡りがうまい。柔軟性に富んでおり、柔よく剛を制する。20~24才(2004~2008年)喜神の長生運に天地人が揃い従強格8点比劫6点、2004年甲申歳、従強格16点の助比劫で、強旺得所として命式が完成しブレイクする。 さと美さん 内格・官印相生(壬庚戊)お嬢様タイプ。家柄が良く、社会的地位にも恵まれる。『子平百章歌』に実例があり、水源調流となる。 子平 運勢 ひとりさん 喜財の大運。妻を娶る運勢。31才~35才 2006~2011年 乙運 財喜神運。 ちかさん 2009~13年の五年間は和用神の喜神大運。次の子運も沐浴の喜神は、霊精と艶福で、人気がさらに上昇する。華やかな花瓶が添えられて名瓶鮮花となり、花と花瓶がともに競演してさらに美しくなる。流年2009年は害印綬の調候忌神となり命式が汚れてしまったので、苦労が多かったようだ。しかし、蓮の花が泥によっても汚されない清浄性を持つように世の不浄を浄化し、苦難を乗り越えていくことに人生の大きな意味がある。 さと美さん 19~23才(2006~2010年)戊運は生印綬、名震四海の運。社会的にブレイクする運勢。2009年は官殺混雑・己土濁壬といって命式が汚されていたので、男性関係や仕事面で口に言えない悩みや苦労があったはず。汚れた方向に運命をもっていかないことである。24~28才の午の運は未午合の胎の喜神で福徳運なので、結婚して家庭に入る可能性が大である。子供がうまれるかも? 収録中にひとりさんの質問に答えられなくなってコメントが出てこなくなった数秒間が阿刀田に起こった。 何事かと阿刀田は絶句した! 阿刀田の意識は広大で透明な空間に何もない状態になってしまったのだ。 その意識はそこのスタジオを遙かに超えた異次元空間にタイムワープしているみたいだった。 どこにアクセスしようとしても何もない空間が見つけるだけで何もかもが透明で輝いている。 なんとかこの状況を打破したかったのだが、あるがままの自分にもどっていったとき、やがて稲妻の直撃のようにリクパから情報がやってきた。 収録が終わったときの方が有意義なコメントができたのではないか? と阿刀田は思ったのだった。 スタップのみなさま ひとりさん みかさん さと美さん ありがとう 阿刀田達磨(ダルマ) 2009/12/12 14:15:33
我々の意識は生まれたときから染みひとつもない真っ白で透明なオーラに包まれている。 しかし、我々は意識の使い方を誤ってこの清浄な自性である意識を汚してしまっている。 病気、災難、不幸はみなすべて自らの意識が生みだしたものであったのだ。 意識が穢されなければ、対象に穢されることはないし、むしろ対象すらも浄化してしまうだろう。 阿刀田達磨はすでにその境地(状態)に達している。 皆さん意識の使い方を見誤ってはなりません。 意識をオーラを穢すすべての原因は、我々の心の在り方や使い方にあったのです。 だから観察しよう我々の心の真実の状態を!? 我々は思考したり、何かを行動に移すときに自らのエネルギーを素直に何も弄らなければ、それは自然な光明となって何ものも何ものをも穢す対象にはならない。 しかし、そこに一点の疑いや曇りがあれば、快晴だった意識はたちまち曇り空のような暗雲に包まれてしまう。 私たちの意識とは日常の空間と同じものなのだ。 だからどのような空間(現象や顕現)が現れようとそこには浄も不浄もないのだ。 それを知ることが意識を浄化に導く最短かつ最上の道だ。 あるひとは同じ環境や同じ人々にあっているのにも関わらず病気になってしまったり、全然病気の症状はあったとしても病気にいたるまえに解毒してしまっている。 意識の穢れの極みこそ病気を発症する。しかし、それは煩悩の持つ意識を浄化する働きに他ならない。 だから病気は治して治るものではなく、意識を浄化して治るものなのである。 煩悩とは対象化しなければ智慧に変容し、我々を救う光の教えへと変容するのだ。 阿刀田 達磨より 災難の渦中や病床にあるすべての方々へ 2009/11/27 17:22:17
阿藤 大昇 初めてテレビ出演しました。 http://ch.hi-carat.co.jp/1ch/1ch.html 携帯小説の第一作目『マメヒコ西廂記』も後もう少しでアップします。 吉日 阿刀田 達磨 こと 阿藤 大昇 2009/11/14 7:29:08
自分自身に顕れてくることは、すべて自らの自己顕現であるが、本質をつかみとれるかは、当人がその顕現のリアルをどこまで見抜いているかが問題だ。 物事の本質を心の眼でもしみれるひとがいたのならその本質を見抜いてしまうだろう。 反対に概念や思い込みの皮膜でみてしまったら到底本質に辿りつかない。 婚活も同じだ。その自らの絶対的対称性を見抜くには、我々は概念の皮膜や思い込みをすてなければならないだろう。 煩悩ですら智慧に変わってその本質をつかむことができるとしたらそれこそが当人の個人的な運命的特質であるといえよう。 彼ら彼女らにとっては、すでに言葉も行為すらもすべて婚活を成している。 なぜなら彼ら彼女たちは、あるがままにいきているからだ。 婚活が成就しないと思っている皆さま、 皆さんリアルを見抜く婚活をしましょう。 婚活相談所 企画室長 阿刀田 達磨 2009/11/02 12:35:33
グル 自らの最高のグル、つまりゾクチェンでは自らの普遍的な法性であるサーマンタバドラに当たるが、運命学ではその当人のただひとつの個体性を持った運命のそのものを指す。個体性を持った運命とは当人を完全に導くことができる最高の根本グルに他ならない。運命学には命と運の二つの要素によって今置かれて運命の状態を説明することができる。故張明澄先生が伝えてくださった『五術大法』の六大課の運命学は、自らの父母(ヤブ・ユム)の守護尊と明妃との関係を顕わにすることができる。自らの運命を論じ、自らの運命を見届けることは最高のグルヨーガであるといっても過言ではないだろう。 ダーキニー 空間のような存在であり、我々自らの普遍的で清浄な報身であるところの金剛薩タに相当する。自らの個体性を持った父母のダーキニーは、奇門遁甲における立向と座山が父母に相当する。ある方位を用いた場合においてあらゆる時間単位にそれぞれのダーキニーが存在する。故張明澄先生が日本に伝えてくださった『奇門大法』は、奇門遁甲によってこの不可視の父母のダーキニーの存在をロジックによって解き明かしたものであり、奇門遁甲は父母のダーキニーの曼陀羅図に相当するものなのだ。 デバ 護法尊。不可視の存在。自らの普遍的な化身である干渉(慈悲)エネルギーに相当する。自らの個体性を持った父母のデバは、風水の陽宅・陰宅に相当するが、それに対して地理風水における山地、平地、丘陵地、江湖、道路は、普遍的なデバに属し、個体性から見たその地理風水の具体的な対象物(惑星と虚星も含む)は、それぞれに父母のデバとの関係を顕わにする。故明澄先生の直伝の『風水大法』はこの様々なテバからの不可視の干渉のひとつ一つの情報を綿密に我々に説いてくださった埋蔵経典法といえるだろう。 ゆえに存在は自ずから生まれたときすでに成就してしまっているので、運命の命運や方位や風水や名前によって多様な顕現がその当人に生起してしまうだろう。しかし、それでさえすべて完全に完成した状態で我々の目の前に現れているので、もう努力することも願うことすらもなくすべては完全に完成してしまっているのだ。だからその中に無努力のままにとどまるという『リクパのカッコウ』の教えを今この時代に別の角度から写しだして説こうとする行為こそが個体性と普遍性の融合を説く新たなゾクチェン10乗目の教えを生み出すと阿刀田達磨は確信に至ったのだった。 阿刀田達磨のインタビュー Q:占星術などの出会いはいつごろ、どんな時だったのでしょうか? A:同級生の自殺が切っ掛けです。私は高校の三人もの同級生を彼らが自ら決意した自殺で失いました。その中に高校生のとき、一番仲の良かった女の子が自殺したことに一番ショックを受けました。 Q: フランス文学を専攻されていたのに、なぜ中国の占星術、五術・六大課を研究するようになったのですか? A:私は高卒で上京し、学歴は高校生まででした。コックさんの修行を七年間しました。そしてコンピューター関係の会社に勤めながらいくつかの大学の聴講生をしていたのですが、30歳前後で自費出版した占いの専門書が専門家の間で有名になり、そのころから多くのプロの占い師が私に占いを習いにきました。占いの研究を本格的な学術研究にするために明治大学の当時、社会人入試というものがあったので、そこのフランス文学科に入学しました。私は英語が苦手だったので経験のなかったフランス語を専攻しました。しかし、後で解ったのですが、過去世回帰という瞑想方法によって私がフランスのモンサンミッシェルの司祭だったことが判明し、やっぱり過去世に引き摺られた人生だったのです。あるとき有名な霊能者の加藤和子さという人に出合って私が諸葛亮孔明と血の繋がった兄であり、小さいときに呉にある親戚のおばさんに養子にもらわれたということまで預言したのです。それが歴史書には呉の大将軍となった諸葛瑾という人物で日本でいったら大岡越前のような人だったようです。諸葛一族の子孫であったがゆえに占いは十八番だったことはいうまでもありません。 Q:六大課とは、そして五術は哲学の思想のジャンルだったそうですが、いったいどういったものでしょうか? A:それは五体三身論にそのルーツがあり、筆者の研究では、ボン教のゾクチェンの教えのシャンシュン・ニェンギューという教えの中にその原型が残されているようです。それが中国の伝統的な占いとして独自に発展をみたようです。 Q:占いの関して、当たる当たらないが取りざたされます。私としては悪いことは当たって欲しくないですし、良いことは当たって欲しいわけです。良い占い師を選ぶ基準はどんなところで選べばよいでしょうか? A:占いが当たらないというのは「見解の中で行為を失う」というゾクチェンの教えにも共通する現象です。判断したことと現像が噛み合っていなければ、その見解が間違っているか、その見解の中に自分の意識がしっかりと繋がっていない二つの場合があります。見解が間違っていてはどのような占いであれその占いそのものに問題があるといえます。我々はそのような占いを勇気を持って捨て去らなければならないでしょう。 Q:一般人でも「日が良い、悪い」や「方位の善し悪し」を日常的に考えることができますか? 一番怖いのは、実星の方位に冲刑する方位に向かったとき、万人にすべてにおいて大きな災難に遭われる方が多いようです。 Q:セミナーでは「運命を解き明かす方法」「百人斬り」などを行っているようですが、人を占う時はどういった形で、運命がみえてくるのでしょうか? A:六大課はよりリアルに運命を写しだしていきます。それは、七つの智慧の鏡といえるでしょう。人間の内面と外面の隠された部分を露わにしていくようです。 Q:人の運命は決まっているものなのでしょうか? A:人の運命の状態を説明することができるといえます。今どのような状態にその人が成っているかを説くことができます。逆に運命を特定することは非常に難しいといえます。運命を決めつけたり、断定したりしてしまうことは返って人間の無限の可能性をダメにしてしまうからです。私は人を占うとき、運命というものをできる決めつけないように努めています。 以上の情報が即座に知ることができる「阿刀田達磨の開運カレンダー」を多くの方々の要請により2010年度のカレンダーを今作成中です。 つまり、今運命が限界だと思っている方がもしいらっしゃるとしたら、まだ手立てはいくらでもあると私はすべての人にそう説くでしょう。 Q:阿刀田達磨先生の座右の銘は A:「智慧の輝きによってあるがままに生きる」です。 阿刀田達磨のインタビュー終わる。 2009/10/28 9:28:31
携帯小説『マメヒコ西廂記』『ギラギラ西遊記』の姉妹作発表間近! 雑誌、テレビへとどんどん情報展開して行きます。 こうご期待を! 阿刀田 達磨 2009/09/21 22:38:18
サマヤ戒を破ったことによる越法における災難は、そのサマヤ戒に反した期間によって災いの程度が決定されるようだ。 一日 一月 一年 数年 10数年以上 その負債の基本が懺悔にあるのだが、修正不可能なときは、本人が所有する財物によってロハすることが可能だ。 しかし、このとき重要なのは、払い過ぎてもまったく足りない場合も宜しくない。それはともに与える側と受け取る側に災難が起きる。つまり、サマヤ戒を破った罪障が解消していないのだ。 正法ではない例えば、マーチン教団やそれに準ずる教団に財物や奉仕を布施したところでサマヤ戒の罪障を解消することは、決してない。むしろ罪業をさらに積み重ねるだけだ。(マーチンはこのサマヤ戒を破った代償として一家すら暴落させたのであった。その被害は多く出たようだ。しかしそれを告発したものは誰もいなかった。) このサマヤ戒の解除方法がゾクチェンの口訣の教えの中にあったことは奇しくも皮肉であったといえよう。 サマヤ戒に反するとは、それは自らの清浄である金剛薩タである自性を汚しているのだ。 負債が個人の許容を超えた場合、家族にその負債が支払われることになる。本人の難病は自業自得であるといえるが、それが妻子や親戚や友人にまで問題が起きているとしたらこのサマヤ戒を破ったことによるカルマが生み出す不条理の現象だといえるだろう。 あるひとはこのサマヤ戒の浄化を怠り、オーラを汚したことで両親をともに亡くしてしまった人がいる。当人はそのことすら理解していない。自らが本来の自性であるところのあるがままに生きて来なかったことが大きな原因だ。 だからどのような手立てを駆使しても物事が良いほうに回っていかないとしたらこのサマヤ戒を疑った方がよい。 本来鑑定料金を安く設定している阿刀田達磨もそういう意味では、サマヤ戒をカルマの負債の浄化を妨げる原因となっている。かつて鑑定を受けられた方も無料でもし占ってもらった方々ももしこのサマヤ戒に反していると感じたならそのつけを支払わなければならないだろう。 占いを依頼してキャンセル料すら払おうとしない不届きものにサマヤ戒を論じても仕方がないのだが。 サマヤ戒を完全に浄化するには次の三種の修行が必要である。 自らの法性に目覚めること。つまり、法身を自らのものとすること。 自らの自性に目覚めること。つまり、金剛身である虹の身体を自らのものとすること。 自らの慈悲に目覚めること。つまり、慈悲心を自らの心の連続体に発生すること。 それには、虹の身体を悟ったグルとの血脈の深い繋がりと生きた教えの埋蔵経典の加持力がともなっていなければダメだ。 そして朝昼晩夜(睡眠)の四つの時間をすべて三昧に統合していくゾクチェン(アティヨーガ)の修行を行う必要がある。 かつてのゴーダマブッダの仏舎利をいくら祈願しても成仏のご縁があっても完全成仏することは難しい。なぜならそのグルとの血脈が薄いからだといえよう。つまり、我々凡夫の衆生とつながっていないのだ。だからブッダの説いた末世本尊成仏経の三福道のようにいくら三宝に供養しようと完全成仏できないそれは、埋蔵経典の加持力がもうすでに効力を失っているのだ。つまり、その時代を救う埋蔵経典法があるのだ。 だららいくら懺悔や浄化のマントラを唱えようと自らの法性・自性・慈悲心になにもヒットしないそれがすべての宗教が現代を救えない原因であるのだ。 現代を救うには、 自らの自性を完全に取り戻す「金剛薩タ意成就法」 自らの法性を完全に取り戻す「アティヨ-ガ(ゾクチェン)の奥義」 自らの慈悲行を実践しうる「憤怒蓮師密成就」 の三宝が現代の世を救う鍵だ。 なぜ現代の人々は、血脈も加持力もない無意味な教えによって着飾ろうとするのか? それは似合わないブランドを着て自分が似合っているとさも満足して人々のようだ。 完全解脱できない次第を唱え、まったく自分に血脈とならないグルを根本グルと仰いでいるような人々に悟りも解脱をもたらされることはないだろう。 なぜ人々はリアルをみようとしないのか? 阿刀田達磨は、そのような教えや宗教や占い予言などまったく無意味だと感じたのだった。 愚弟 阿刀田 達磨 台湾にて真実のゾクチェンの埋蔵経典を発見する 2009/09/09 16:56:07
阿刀田 達磨(たつま)は、新たな展開を見出すために楽曲に挑戦する。 オリジナル曲の作詞・作曲を手がけようとしているのだ。 どのような楽曲にするのか? 自分らしさの強調をしなければならない。 プロへの道だ。自己主張するしかない。 あるがまま・個である意味を主張することが人間のすべてだ。 ありのままのあるがままを曲に乗せる。或いは他のユーザーから譲り受けたものを融合する道がある。 マイフィーバリットギターとは、他者の作成したものを自分の好みに合わせてチョイスしたものに過ぎないのだが。 自と他の融合の作業 マハームドラから ローカル情報をオールに乗せる作業 六大課へ それが一番難しいテーマだ。なぜならほとんどの場合が自己満足で終わってしまうからだ。 ギターチョイスとギタースペックの吟味は終了した。その中からあるがままの自分の曲を引き出すことが、一番難題であるといえよう。 それにはまず自分をひけらかせるしかない。エゴでもよい。誰もが示さなかったもので勝負する独自性が必要だ。 つまり、それがゾクチェンの大円満の境地であれば可能かもしれない。 2009年 9月より 阿刀田 達磨(たつま)はアーティストを目指す 2009/08/30 10:09:32
人と人との負の出会いは、煩悩のエネルギーの強度によって出会っているようだ。 とくに両者やあるいは一対多の関係において大きなトラブルを発生させるその原因は、その当時者の煩悩がどれだけの強度の煩悩を発したかで決まる。 それはカミナリや洪水や地震のようなエネルギーの開放に等しいのだ。 それによって莫大な被害や多くの人命が失われたとしても人間のカルマの負債である三大煩悩が戯れていたに過ぎないのだ。 そこには被害者も加害者も平等であり、煩悩が対象化して映し出した存在を有ると思ったときから結ばれた縁であったのだ。 そのカミナリのような膨大なエネルギーを浄化することも制御することは所詮不可能なのだ。 我々のエネルギーも大きな歪を生み出し続ければ次第に崩壊へと突き進む。 この目的を持たない三大煩悩を野放しにしておけば必ず、 離婚の危機、 家庭崩壊、 社会的犯罪、 難病、 伝染病、 環境破壊、 などの問題が多発する。 みな煩悩の無自覚によって起きているのだ。 煩悩を抱えた宗教、政治、事業、研究、芸術などはどのようなものであれ限界に行き着き崩壊するだろう。 そして人間は、自らの煩悩とカルマが引き起こした現象しか目に写らないのである。それ以外は、どんなものが戯れていても彼らの目の前に写し出されない。つまり、ブッタの顕現を見ることができないのだ。 それが人間が悟れない根本原因でもあるのだ。 2009/08/29 12:32:39
マーチンは、人間の存在を波動理論という狭い概念によって解釈し、存在という波動をある固定した波動によって制御し、コントロールしようとした。 その理論は社会的権威をうまく利用し自説の正統性を主張していたのだ。 しかし、人間のもつ波動は、そんな単純なものではなかったので、セラミックが生み出す脳量子波のようなものは、本来のエネルギーの状態を散らし、掻き乱し、精神混乱状態を生み出すものだったのだ。 (そのセラミックをもつ人々と接触しただけで、我々のブッダの三身である脈管・ルン・ティクレが掻き乱され、三身がたちまち煩悩汚染されてしまうのだ。その汚染エネルギーの強度は凄まじい。これなら自他ともに癌や難病になってもおかしくないといえる。それらの信者の布教した外部のものたちにも同じ被害を起こしていたのだった。) 波動の速度が速いので、風水理論と同じように、一時的に外面が若返るような現象を生み出すが、結果的に精神も肉体もズタズタにする波動なので、最後は廃人同様となってしまうのだ。 (彼らが浄化と称しているものは、密教の一時的な変容の道によって偽りの顕現を生み出していたに過ぎなかったのだ。その術中に落ちてしまった者たちは、その偽りの清浄な顕現の中で受容と拒絶といった煩悩を思いのまま発生し、あいつは不浄だ。あなたは清浄だという幻覚を見せられていたのだ。そのようなものたちが虹の身体の悟りを得たブッダの虹の体を直接見ることなど不可能なのだ。) この恐ろしい宗教兵器を野放しにするのは、危険すぎるといえよう。 セラミック 洗脳を生み出すでたらめのツール 教説 愚か者の教え(智慧の輝きをそこに見出せない) サマヤ戒 脅しと脅迫 洗脳差別 信者同士のいじめの実態 これを語ることで、真実の宗教とは? 人間が本来目指さなければならない道とは? すべての人々に語る。 対象に真実はない。それが真実だ。 この文字と言葉とこの真実の教えによって宗教根絶を果たす。 最後の聖戦である、 マーチン被害の全貌をせきだらに語り、 そこからの解脱を説き、 阿刀田 達磨は密教を否定し続ける。 なぜなら、密教は8乗の教えであって死んでバルドの中で解脱を果たす教えなのだ。 今即解脱する教え以外、阿刀田 達磨はその存在意義を認めないのだ。 彼が生み出した, 占い、 宗教、 恋愛、 仕事、 政治、 哲学、 思想、 芸術、 そしてすべてを統括する五術の教え、 さらに完全に勝利した二元論の輪廻を克服し、虹の身体の大いなる転移の悟りの完全解脱を成就したのだ。 だからこの大いなる憤怒の智慧を見くびるな。 これ以上善良なる人々の心を汚し続けることは、阿刀田 達磨は絶対に許さない。 我々思想マイスターは、思想武力介入を行使してでも戦う。 今なら言える誰も悟っていなかったというこの現実を。 これが最後の聖戦である阿刀田達磨のレッドクリフなのだから! 宗教根絶の教えを説き、すべての教えと限界概念を完全破壊する瞑想法こそブッタ釈迦が実際に行っていた滅尽定であったと阿刀田達磨は確信を得たからこそ、 今まさにこの魂意の叫びである宗教根絶教を唱えているのだ。 2009/08/27 22:55:29
冒頭において、その魔教軍団の被害に遭われた人々にまず遺憾の意を表明致します。 そして未だにその魔教軍団の教えを信奉する人々に敬意を表明する。愚かであると。 これは真実の悟りに目覚めていないことが原因である。覚者、阿刀田 達磨こと、思想マイスターのブッタとなったダルマ大師からの緊急メッセージである。 それを受け取れるかどうかは、あなた方の修行段階、つまり、卍(スワテッカ)のブーミーによるのだ。 あなた方が勝手に信奉しているセラミックは、概念の構築物であって究極の悟りに至るどころか我々の五体である識・神・気・精・力の機能をバラバラに分解し、混乱状態に陥らせる洗脳宗教兵器と呼ばなければいけないほど危険なツールだと言わなければならない。 なぜなら、神の機能が乱れると社会的問題が多発する。これは太乙神数においても自らの誕生ポイントより凶方位を突いて事業や引越しを行ったものに現れる現象なのだ。この機能が混乱すると最悪の場合、精神障害を発症するのだ。 そして精の機能は財産、名誉、地位すらその宗教の教えによって損失を被っているはずだ。さらにその精の機能の混乱は癌などの難病を生み出す。そのセラミックの波動が本来の我々のあるがままの波動を混乱状態に陥らせているのだ。 挙句の果ては、気の機能である家庭や愛情でもある恋愛関係にすら混乱状態を生み出していたのだ。 これは明らかに合法的に犯罪と言わなければならないだろう。 つまり、そのセラミックは、識・神・気・精・力の混乱を来たすどころか、精神も肉体もズタズタにする非道極まりない宗教兵器だったのだ。 さらに驚くことにこれを生み出した現象の根本がその捏造したセラミックであるにも拘わらず、その現象を密教的祈祷によってもみ消そうとしていたのだった。 罪悪の原因を自ら捏造しさらに祈願といった二重の洗脳システムによって信者を支配していたのだった。 さらに驚愕ともとれる行為を行っていたのだ。信者同士を宗教差別していたのだ。つまり、そのある信者はエイズと同じような精神汚染しているのだからそれらと接触してはならないという非道ともいえる人種差別をも超える人として絶対にやってはならない幼稚ないじめそのものであったのだった。 そんなのある訳ないだろう。君たちが造りだした憑依現象である。つまり、魔教軍団は密教の変容の法を人を陥れるために悪用していたのだった。その被害を多く見聞きした。 それが教団の利益のために行使されていたというこの現実を誰も知らなかったのだ。 この無情な教団はオームすら超えている。こんな存在を阿刀田 達磨こと思想マイスターが絶対に許すわけがないだろうが! 阿刀田 達磨は憤怒尊となってでもガンダムマイスターになってでもその魔教を徹底破壊することだろう。 そのカルマの負債は絶対に支払ってもらう。なぜならば、それが自然の摂理であり、誰もそれから逃げることはできないのだ。 いい加減に悟りなさい。哀れこれが観音禅院の末路だったのか! 卑劣な洗脳を今すぐにでも遅くない解除せよ。煩悩を増大させるな。ただ宗教サギに遭った。ひどい目に遭った。などといって何の真実を悟らずに去っていったあなた方も観音禅院から一歩も進化していなかったのだとただ知るしかないだろう。 その現象は、愚かな者たちが写し合った煩悩汚染の強度が戯れていただけに過ぎなかったのだ。それでも魔の教え続けなさい。自らの手で自滅するまで。それがあなた方に課せられた悲しい運命だったのだから。 2009/08/26 8:43:54
筆者は人と接するときは、自らの体験や相手のエネルギーの状態を考慮しながら、とくに人々の指導や鑑定にあたるときには細心の注意を払っております。 占いに来る方々や占いを習おうとする方たちには、問題を抱えている場合が非常に多いからです。 占いを魔法の杖のようなものだと勘違いしている人々や徳を積むことなしに風水や奇門遁甲などのテクニックによって何もかもが解決できると勘違いしている方々には占いの本質を伝授することはお断りしております。 また暗黙の了解であるかのようにそのような人望にかける方々は自然と筆者の前から去っていくようです。その多くは常識の欠如であるといってよいでしょう。そしてそのほとんどが不純な動機から占いに頼ろうとするものたちです。 そのような方々が学ばれた占いやその方々の占い鑑定では、占いが正しい判断のもとに行われることは決してないでしょう。むしろそのほとんどがその本質を歪められて占いの正当な評価すら失い兼ねません。 自らのエネルギーの混乱状態や心の穢れをそのままにしている限り、自分も他人も汚し、真実がみえないまま二元論の輪廻の中で苦しみ続けるでしょう。 自らが自分の心の汚れに自覚を持っていない。これがすべての根本原因です。 それを解決しない限り、どのような占いを用いてもどのような手立ても水泡に帰すでしょう。 それが我々が今置かれている甘くない厳しい現実の局面なのです。 占いはその自分の限界を切り開くためにあるものであって、自己の煩悩からでたカルマの実現のためにあるものではないのです。 何でも自分の思いどおりに、そして、他すらも自分の思いどりに支配しようとする。 その行為は完全に狂っているし、間違っている。その行為は最善の結果を生み出すことはないだろう。完全に心が汚れきっていますよ。 この辺のところを占い師さんも占いに行く方々も正しく理解していないようです。 2009/08/24 16:56:26
阿刀田 達磨は、地球の人類の歴史を内観しながらこう呟きはじめた。 過去の宗教に依存していく人々、 何の変革もなしに今があると思っている人々、 我が身の安泰のみために他を排斥する人々、 謝金をしなければ国政を維持することができな人々、 自らの煩悩を燃やし、カルマのままに生きる人々、 今目の前に現れているものが未来に連結することだと見ていない人々、 真実を覆い偽りの中で生きている人々、 妥協とあきらめ、為すべきことをなおざりにしている人々、 誤った教えを信奉し、それすら理解せずに布教している人々、 自分の未来も世界の未来も見えていない人々、 人類を人を正しく導いていると錯覚している人々、 リアルこそ人間そのものであり、そのリアルを見ようとしない人々、 偽りの名声・地位・財産によって心眼が曇らされている人々、 有り得ないことを思い込みそれを得ようと突進している人々、 過去の恩を忘れ飽き足らずに他を求める人々、 飽くなき煩悩に翻弄されながら見境なく生きている人々、 妄念とエネルギーの混乱と対象に支配されながら自分を見失った人々、 その妄念を根源とした想いを完全根絶する。あらゆる妄念から生まれた宗教を、妄念の教えをすべて破壊する。今一瞬のそのときに生じる妄念と悪意、それこそをすべて止滅し、解脱させるところにあらゆる善なる教えは帰結するのだ。宗教根絶教が説くべき論点なのだ。 それが思想マイスター・阿刀田 達磨の決意だ。 2009/08/19 10:19:30
阿刀田 達磨は法身の瞑想に入りながら次のように呟きはじめた。 すぐ尽きてしまう財産など誰も欲しがらない。 すぐにリストラに遭う地位など誰も求めない。 名ばかりの人望など誰が顧みるのだろう。 ときに移ろう人気を求める人々は何をみているのか? 絶世の美貌も容姿も今このときでのことでしかない。 世俗のそんなものは何もいらない。 マリクパが生み出した偽りの人生などもういらない。 煩悩の汚染によって自らも他も汚しきっている人生などもうやめよう。 病気・貧困・社会紛争・宗教問題のすべてはマリクパが生み出す顕現だ。 目覚めよ人類! 目覚めよ社会! 目覚めよ人々! (一般の下世話な宗教は、地位を棄てなさい、財産を寄付しなさい、山に籠もりなさいというけれどそんなのはすべてうそっぱちです。なぜなら、煩悩はそんなことでは浄化も解除もできないからです。むしろその煩悩の対象が宗教や解脱に向かっているだけのことなのです。) 煩悩はとめどなく湧き出てくる。誰もそれを止めることはできない。 ある宗教家は煩悩を水草にたとえて常に抜き取れとはいうけれどそんなのは徒労だ。 煩悩の性質をまったく理解していない。そんな宗教家はいらない。 煩悩を智慧に還元する菩提心の教え以外に煩悩を乗り越えることはできない。 放棄の道も、 変容の道も、 開放の道も、 煩悩にアプローチするために説かれたが、それを誰も実践しなければ、何も変わりはしない。 自らが煩悩と対話しながら乗り越えよう思わなければダメだ。三日坊主とはそういうことなのだ。 阿刀田 達磨は常にこの煩悩と格闘している。 なぜなら、思想マイスター・ダルマダイシのファーストミッションはこの人類の負の遺産である煩悩の浄化と解除が任務であるからだ。 その鍵がリクパ(明知)であり、まず最初に『知恵のカッコウ』に目覚めるしかないのだ。 そこからすべての思想マイスターは出現するのであろう。 2009/08/10 23:08:30
阿刀田 達磨 の金剛詩 すべての限界概念を払拭した。 すべての占い宗教すらも根絶した。 もうなすべきこともない境地にある。 それは法身と異なることなく、 すべてはあるがままに完成している。 後は虹となって空間に帰すのみ。 自ずと宗教根絶の教えがもたらした果であったのだった。 2009/08/07 8:41:24
第六才子書 マメヒコ 西廂記のファーストシーズンがやっと完成しました。 セカンドシーズンは、恋愛百人斬りとなるでしょう。 恋愛における 誤解、 嫉妬、 驕り、 決別といった、 煩悩の妄念を燃やした恋愛がなぜ悟りに至れないのか? それを写しだして行きたいと思います。 2009/07/20 12:20:37
政治介入は宗教介入に等しいだろう。宗教根絶の宗教介入、ときには武装介入(護法尊による宗教的クーデター)も必要である。 我々は過去の誤った行為を払拭するための行動が必要だ。 人間は限りある概念の中に閉じ込まれており、そこからの開放と本質を剥き出しにして生きていくにはどうしたらよいのだろう? 人間は限りある概念の内で、人は苦しみの人生を強いられている。社会も会社も家庭も個人も、人間はなぜその中で完璧を求めそれによって自分も他人も責め裁かなければならないのか? かつてチベットでパドマサンバァが行った宗教行使を現代において行使しなければならないだろう。 責任を追及してもよいのだけれど、その責任がもし社会自身が捏造し生み出しているものだったなら、ある特定の人々に責任を転嫁し、責任を取らせる行為は、理不尽の極みではないか? そこに神も仏も慈悲もない。 そのような社会制度は一度壊してしまわなければならないだろう。政治制度や宗教などのあらゆる限界によって人間を規制しようとする行為こそが、その根本原因を作っているのではないか? 社会は狂っている。自己の利益のために弱きもの愚かなものを根絶し死に追いやっている。個人も狂っている。制限のない自己を表現するには、この社会の枠組みでは狭すぎる。ほとんどの人はそこから溢れ零れている。 政治は何をやっているのか?本当の政治に目覚めるときが本当にやってきたのだ。 理攻めや概念や理屈だけで世を救うことはできない。あなた(政治家)は、本当にそのことを悟っているのか? 多くのくだらない宗教や占いを蔓延らせてしまった社会の無垢なる歪みを正す、政治家、諸葛孔明のようなリーダーを社会は、今、本当に求めている。 当世の政治家は何も目覚めていない。 自らの利益だけのために政治を行わないでくれ!煩悩を解決していない政治家など世は誰も必要としていないのだから。 聖なる人々にこそ、それを預けることができる、ということを、それが政治の根本であるといえよう。 法身のグルヨーガ 報身のグルヨーガ 化身のグルヨーガ そして加行(前行)は、我々の仏性を獲得するための唯一の希望となるだろう。 概念によってつくられた如来蔵思想では、本質まで辿り着けない。リアルに生きるとは、自らの根本グルを見出すことに他ならない。 未だそれを見出していない人々に告ぐ!思い込みは棄てなさい。そしてすべてのカルマ的顕現を棄てなさい。皆さんが見ているものは偽りに過ぎないものなのだから。 2009/07/16 10:17:23
顕現や現象を覆すには、 まず対象に支配されてはならない。 相手の顕現の中に取り込められてもダメだ。 自分を主張し、相手が造り上げた概念の構築物などによって支配されてはダメだ。 それにはまず自分自身の概念の構築物が壊されていなければならない。 純粋な心、つまり、仏心、心の光明こそが人間の心の扉を開く鍵となる。 その心で周りの環境すらも三昧に統合していく。 そのとき、相手や状況がどのようなものであれ、悟っていようが悟っていまいが関係ない。すべてを三昧に統合したとき、すべては調和している。 なにも弄る必要はないし、なにをなす必要もない。 そのとき、敢てマハーヨーガやチューによってすべての魔を制伏することも魔を断ち切る必要すらない。すべては三昧の中で自然解脱していく。 これを悟ったひとにはもうゾクチェン9乗の教えすら文字で説く教えに過ぎないだろう。 教えのエッセンスのエッセンスは、広大無辺であり、どのような言葉も文字によっても表現不可能であり、その境地を体験したものこそそれを語り、伝達することができる。 すでにそこには宗教や教えそのものが根絶してしまっている。その概念すら必要ないのだ。 これが筆者が行おうとしているすべての宗教を根絶する宗教行使の教えなのだ。 いずれにせよ、虹の身体の大いなる転移の悟りを得ようが、得まいが人間は最終的には空間に消えていってしまうのだから世俗における成就に何の意味があると言えるのだろうか? それを求めるのはリアリティの本質を見誤った蜃気楼を追う人々と呼ぶしかないだろう。 空間から子平の埋蔵経典が出現した。それは新たな子平門派の開示であり、それとともに新たな『滴天髄』『百章歌』をも超えた子平の誕生をここに宣言する。 というよりも、その実物となる子平埋蔵経典を発見した。今回の台湾旅行は、それを開くためのものであったようだ。 同行してくださった安さんに感謝申し上げます。 2009年7月15日 台北において 阿藤大昇 2009/07/08 0:05:14
我々は、宗教介入を行う。それがお節介であろうがそれを行使する。これが本当の慈悲から発露したものであれば、だれもそれを拒絶することはできない。リクパはすべての無知を破壊していく。それを見ることなしに人生を歩むことは、無意味な人生といえよう。 なぜ自分のリアルを見ることをしようとしないのか。どこまで甘えるのか、自らを放棄し、責任を他に転嫁しようとする。なんて卑怯な無責任な行為なのか。だれもそれを叱ってくれなかったことが唯一、おなたの人生の落ち度だといえよう。 甘い汁を、だれかを知らないうちに犠牲に歩んできた自分を、すべてを他人せいに、自らが被害者だというように、あなたは生きてきたことに何の躊躇もないのか。 それが人の運命というものなのだ。悟れないのだ。すべてそのような状況をすべて自分が生み出していることになぜキズカナイノカ? 哀れ調和を自ら乱している、それは悪意にほかならない。 慈悲も愛すらも本当に目覚めていないものが、それを欲し求めている。しかし、一度も愛も慈悲も生じたこともない人々が、本当にパートナーを真剣に愛したことのない人々が、愛を語る資格などない。 単なるテロリストに過ぎない。宗教介入も愛がなければ、単なる紛争介入にすぎない。 なめるな、それは自分も他者もなめている。そこに尊敬も敬意も帰依もない。君たちは仏教が根絶した世界に転生したのか。哀れであるとしかいいようがない。 2009/07/06 19:44:53
ひとはなぜあるがままの自分を見出せないのか? それは自分しか見ていないからだ。自分の価値基準や自分だけの視野、自分だけのメリットしか考えていない。そういう人々が悟りや解脱や説教や人に諭す行為をしようとする。片腹痛い行為だといえよう。 そこには利他も慈悲も布施もない。我執の極みをみているに過ぎない。 なんと悲しいことか!この現実をだれも直視ししていない。これが現代の世の中なのかと! あなた方は、本当に慈悲というものの、布施というものの真実を見たことがあるのか? 本で読んだ、智慧も慈悲も般若の教えは空想にすぎないものだ。 その本質を見極めたことがあるのか? そこまで自分を落とし込んだことがあるのか? そんな人に遭ったのは、筆者が認めた人は、数人にしかない。 本当に君たちは、真剣に生きているのか? そんな人々にどんなに一生懸命アドバイスしても無意味だといえよう。 人間の根本が腐っている。焼け焦げている。智慧に目覚めた人はどんな状況や逆境にあろうがそれを乗り越えることができる。必ず菩提の華は咲くのである。 社会に自分の概念に押し込めてはならない。 そこに君の居場所はない。 なぜなら、君のステージはもっと限りなく雄大な世界に開かれているのだ。 狭く自分を区切ってはならない。 限界概念に押し込めてはならない。 開放せよ。放松せよ。解脱せよ。突破せよ。 それが、唯一の筆者のアドバイスだ。 2009/07/04 4:48:49
声明 我々はすべての宗教的概念の根絶を掲げる私設思想集団である。 古の占いや宗教は、ある時代に完成をみた。それによって人々は、秩序を得ることができた。しかし、現代の多様性に富んだ社会において今まで行われていた占いや宗教によっても人間のもつ悩みや問題を解決することはできなくなってきたのである。逆にそこにつけこんだ悪質な占いや宗教が多く蔓延ってしまった。 我々はそのような教えを説く人々の犠牲や被害にあった人々を救済するために創設された私設思想集団である。 これがATOizmの社会的思想運動であり、我々の存在価値と意義を問うことになるのだ。 占いによる被害相談窓口 宗教による被害相談窓口 の二つの相談窓口を創設する。 本来社会や国家組織が行わなければならなかった世界に光をあて、社会がなおざりにしてきた、或いは、社会が生み出してしまった、無垢なる歪みを正す時が来た。 宗教を根絶し、宗教を超越する教えこそ我々が保持する十乗目の教えであると確信している。 今までの占いや宗教によった非常に狭い窓口では、現代社会が発症する心の問題を何も解決することにはならなかったのである。だから、新しい占いや新しい宗教、或いは、脱宗教のような啓発団体を社会は新たに産み出してしまった。しかし、新しいという名前が摩り替わっただけで一歩も教えの限界を超えられなかったのである。これがこの世の無垢なる歪みと心の汚染を生み出した根本原因なのだ。 ゆえにまずすべての宗教概念の教えを破壊し、心の汚染を浄化して無垢なる智慧を光らせることから創めよう。 これによって本来の占い・宗教の真実の在りかたを問うことにしよう。 この一大ボランティア事業に多くの方々の活動の参加を希望いたします。 すべての宗教を根絶する教えを抱いて 阿藤 大昇 2009/06/27 21:22:54
概念を超えるには、術を超えるには、何が必要なのか? 自分の限界をまず知ることから始めるしかないだろう。 自分の限界を悟ることがなければ、個人的にも社会的にも成長していくことはないだろう。 一生自分の殻を障壁を自ら作って自らを埋めてしまう。これが二元論の輪廻の姿なのだ。 初めて出合った輝きを、掛け値なしに見た姿を、心にとどめた純粋さをあなたは忘れてしまったのか。 心の本質を、心の本性の扉を開くしかない。あなたは一生その心の扉を幽閉して生きるのか? それもよかろう。それを選んだのであれば! 煩悩のままに受容と拒絶によって人生を見ている限り、死ぬまでその本性を理解しないであろう。いやバルドの中にあっても音・光・光線といった驚愕の中で転生は繰り返される。あなたに悟るチャンスも機会もない。なぜなら、その手をさしのべたにも拘わらずそれを拒否し続けているのだから。 ひとはこのように悟れない。ゆえに輪廻しているのだ。百人斬りの意味も解からず、原初の白いア字の価値も見出せない人々ばかりの世の中であることが、リアリティの本質を見誤ってる。 本当に苦しんでいる人を救うことができるのは、他でもないあなたなのであって、その自覚すらなければ、大切な人々はあなたからすべて去っていくだろう。もう取り返しはつかない。その事実を知ってからではもう遅い。 無意味な教えに翻弄されながら搾取され布施を強要され自らの財産すら捧げたすべての人々はすべて自分の欲望に支配され翻弄されたのだ。それを自分の心を閉ざして責任を転嫁し、自分は被害者ぶる。それこそがまったく悟りも努力も知恵もない愚かで非常に忌まわしい行為なのだ。それによってどれだけの純粋な意識が傷ついたかという現実を知るべきだ。魂がどれだけ悲鳴をあげているかという声をあなたは聞いたことがあるのか。聞こえまいあなた方の耳には真実の声が、マントラが届いていないのか。 悟りの大切な出会いやチャンスすら自分で破壊し、運命のままに翻弄された人々を誰も顧みることはないだろう。 傲慢な人々はまだ自分の行いに正統性を飾り、今でも人を騙し続ける人々は、悟る機会など永久にないだろう。 なんと(エマホ!)哀れで悲しい人々なのか! 幻身の悟りは、存在が一時的に素粒子化する。それに少なからず、解脱や悟りに近い感覚が得られることがある。しかし、それは真実の悟りではなく、真実に到達するものでもない。 虹の身体を得なければ究極の悟りを得たことにはならないのだ。 素粒子と光子の違いがわかるならば、あなたは悟れるかも知れない。あなた方が保持する幻の教えから離脱することができるかも知れない。そのような人々の誕生とその革新を見届け続けよう。それが私にできる唯一の宗教根絶のための教えなのだから。。。 2009/06/25 15:00:26
人間の心の概念構成はもともと全体性をすべて包み込んで認識することはできない。つまり、過去現在未来そして全体性の中にある個の存在がどのように変化して行くのすら認識できない。 つまり、古代中国人がなぜ占いをつくったのか、それは人間の存在認識が如何に限界概念の中にあったかを物語っている。その存在を読み取ろうとして六大課をつくったが、それすら現象のある側面を映し出すに過ぎなかったのである。 その隙間を埋めるには、そのズレを修正する術を人類はまだ本当に把握していない。 なぜなら、どんな論理学も科学もある現象の側面を映し出すだけであってその現象を支配しようとしたとき、もうすでにズレが生じている。つまり、その手立ては現象と平行線を辿っている。それは決して交わることがないだろう。(これが術というものの限界なのだ。故張明澄先生の教えであった五術の限界なのだ。しかし、先生は、南華密教を説いていた。つまり、如来蔵の教えをそしてゾクチェンへ続く教えを説いてくださっていたのだ。筆者はそれによって救われたといっても過言ではない) 人間の思考の限界なのだ。人間がなぜ時間と空間を超えられないかというと思考しているからだ。概念の中に自分を閉じ込めている限り、その二元論的輪廻は果てしなく続く。 自分が概念化してしまった運命的概念は破壊してしまうことができる。今まで認識していた自分というものが、独立して存在していないのだ。 どういう人格で、どういう社会的立場にいるのかということは、すべて概念が構築したものにすぎない。まず、それを破壊することから始めなければならない。 概念構築してしまったが、ゆえに、本質が見えなくなってしまったものを取り戻すには、無知から認識してしまった、本当はないものをあると思い込んでしまったことだ。しかし、それが正しい見解から出たものであればまだよいが、まったく誤った認識活動から作り出された概念は、人間を害するものとなる。だから、その概念を一度壊してしまわなければならない。禅のような自己問答が必要だろう。 例えば、 これから上がるはずものない株を買おうとする人 盲目の恋愛に陥っている人たち 変なお守りグッズによって本当に救われたと思っている人々 変な占い師の誤ったアドバイスで貴重な人生の時間を無駄に費やしてしまった人々 金角銀角のように年中お金に執着し、お金がすべてだと考え、お金のためには人道的行為すら逸脱する、つまり人間ではなくなってしまうのだ。まさしく人間の煩悩が生み出した妖怪といえるだろう。(そもそもお金とは社会的概念が生み出した産物であり、これこそ概念構成として破壊してしまわなければならないものだ。なぜなら、紙切れに一文の価値もないからだ、なぜないものに執着してふやそうとするのか、目の前に現われた確実な財源を確保することの方が大切であり、なぜ何時入るか解からない財の心配をしなければならないのか。完全にサマヤ戒に反している。ガナプシャを行うか奇門遁甲の直符をつかって浄化しなければ、人間関係はますます悪くなっていく。このようにしてものごとは動いているという自覚をもって欲しい) このような人々は、何も自分の本質を見ていないものたちだと言える。 現象と概念はどこまでも平行線だ。人間はそこにこじつけや人情やわずかな希望を託す。そこに確信がないからだ。そこに神や仏や救世主というものを対象化して自分の誓願を託そうとする。完全にリアリティの本質を見誤った病的な行為だ。それは自分も他者も家庭も地域も社会も国も地球も救うことにはならないのだ。むしろ自分の責任を他に転嫁した行為だ。まったく自己責任の自覚のない行為といえよう。 自分の本性を直接見ることなのだ。何かを媒体に見てはダメなのだ。 それを直観したものには智慧があるということだ。(単純に直観が大事だと言っていることとここで言ってことはまったく異なるのだ) どんな概念にも汚されない純粋な意識を持っているからこそ、その真実を見ることができるのだ。 それこそが絶対破壊不可能な原初的知性の顕われであると言ってよいだろう。 2009/06/22 11:14:27
人間の世界に本当に必要なものは、煩悩を静める教えであって決して煩悩を増大させる教え(筆者が今まで信奉してしまった教え)を説いてはならない。それが筆者、阿藤大昇の確信であり、それは絶対に譲れないものである。意識も概念もすでに倒壊した、もうすでに筆者の概念は死に果て絶えた。しかし、復活した。ゾクチェンの教えが私を蘇えらせてくれた。 なぜなら、ゾクチェン・ニンティクの教えこそが私を目覚めさせてくれた唯一の教えだったのだから。(筆者の過去世すらも蘇えらすこととなったのだ) 阿藤大昇として為すべきことなど、何にももうなかった。すでに完成、成就していた。何を求める必要すらなかった。善を行うことも、法脈を伝えることすらもう意味はない。 それはまったくして発菩提心も慈悲も文字の説く教えであって、単なるスローガンに過ぎなかった。(ただの一度も慈悲を生じたことのないものが慈悲を説くことなど可笑しな話だ) 究極である「菩提心の教え」であっても、必要もない。聞くことのできない。聞くことができたとしても、無用のものであった。 だからこそ埋蔵経典となって大地に埋もれ、誰もが顧みれないものになったのだ。(それを開くにはそれ相応のヴィジョンをもっていなければ路傍の石に過ぎないものなのだ。『クンチェ・ギェルポ(存在を突き動かす純動の王)』を読んでも何の感動も持たないものたちにゾクチェンを説くことは無意味だといえる) 今この時代は、新たな埋蔵経典を解き放つ時代になって来ている。2007年の時同じくしてゾクチェン・ニンティクの教えが世に現われはじめたのだ。それはもう誰も止めることはできない。 その教えはもう血脈を離れて自らの意志で動き始めた。故張明澄先生の五術六大課もそして南華密教も復活しはじめた。 いまや時代は真実の教えを開放しようとしてる。時代は教えの開放へと突き進んでいる。無意味な教えを抱く必要はない。新しい時代を切り開く教えが今まさに誕生しようとしているのだ。 筆者の怒りは、宗教根絶するための透明な智慧と虹の身体へと変容した。その教えを見縊ってはならない。ただ人を狂わせた教えを説いたものにその教えは凶器と化し、必ずその教えを破壊するだろう。(必ずやカルマの負債を支払ってもらう。それが因果の道理であるからだ) その教えは世に蔓延る無意味な占いの教えや外道の教えを破壊していくだろう。人類を目覚めさせるために。地球の次元が上がるのを待っていてはダメだ。自らの中に次元はあり、それを他に求めてはならない。 同じ過ちを犯してはならない。教義に支配されていてはダメだ。あらゆる限界概念から開放されなければ、真実の自分は見えて来ない。あるがままの自分を見出すということが、如何に難しいか、全体性の中にある固体性を見出すことは、非常に難しい。なぜなら、みな外を他を見て、自分を判断しているからだ。全体の中に答えはない。また固体の中にも答えはない。なぜなら、その答えは、それすら越えたところにあるのだから。 偽りの宗教家や偽りの宗教行為はすべて石を金と言う詐欺師(オレオレサギ)と同じ現象だということを理解しなければならない。その根本が慈悲から派生した行為だとしても無明(マリクパ)に覆われたものに過ぎない。なぜなら、その被害にあったものは、何の救いも慈悲もないからだ。それらの行いの結果は、人の怒りと憎しみを増大させるだけだ。何の責任も何の使命感ももたない人々が起こす智慧のない行為と呼ぶことができる。(自己責任と言いながら何の責任も取っていない。それはただの責任逃れだ。因果の法則はその行為を許す道理がない。天は必ずそれを裁くはずだ。人を危め傷つけた行為を天は絶対に見過ごさないのだ) 自分のやっていることがどういう結果を生むのかも知らずに行為している人々は、どんな人望や地位をもとうが目隠しをして戦闘機を操縦しているようなものだ。 リアリティの本質に到達した人々は、その真実を顕わにするだろう。だから、そんな宗教などこの社会にまったく必要などないのだ。 本当に見つめなければならないのは、自らの心、つまり、心の彼方にある自らの菩提心に目覚めることであって、それを他に求める、つまり、自分以外に求めてはならないのだ。 煩悩の受容と拒絶によって生きてはならない。それは何も解決に至らないからだ。 煩悩を増大させ悪しきカルマを積むだけに終わるからだ。 煩悩と智慧は交叉して現われる。その智慧を見出せない限り、人は絶対に悟りに至ることはないだろう。 筆者は六大課における広範囲な考察をおこなった。そしてその真実を得た。しかし、それを誰も評価できる人がおられなかった。自分が喰えることが目的ではなく、人を悟らせることが目的なのだから。それが筆者の「文火温玉」の運命であり、それを『子平洩天機』は説いていたのだ。 2009/06/18 10:06:29
人間の存在は、ブッタが究明した、 煩悩障 所知障 のふたつに分けられるだろう。 煩悩障は、人間の原始の欲望に根ざしたものであり、衣食住や煩悩のままに生きる、つまり、欲望を対象化した貪りによる性風俗や飲食関係、売買の商売や住宅関係を職業にしている方々に見受けられる煩悩である。 これに対して、所知障は、知識や概念といった文化的事業に関連した、宗教、学問、芸術、政治や技術、技芸といった分野の人々が陥る煩悩といえるだろう。 その中で詐欺的行為をおこなうのは、宗教や学問、政治、財界を問わず、ボッタクリやほうがいな値段をとったり、合法的におこなう商売を含めて、それらは命によって突き動かされていると考えてよいだろう。しかし、これが犯罪にならなければそれでよしとしているのが社会的見解である。本当は人間の欲望を増大させ詐欺的行為をおこなって搾取しているのが社会の構造なのである。 子平推命では、地位や常識がある人々が犯罪に陥る場合と、そういった概念すら持たずに罪を犯している人々の命運を明らかにしている。この二つの煩悩は人相にも現われるのである。 ひとはなぜその限られた制約の中で犯罪を犯してしまうのだろうか。故意に行う人もいるし、まったく気がつない内に犯罪に至っている場合がある。 しかし、その根本は煩悩によって突き動かされているのである。煩悩によって気が散らされ、狂ってしまっているのである。煩悩が増大することで、精気神のエネルギーバランスさえ崩してしまっているのだ。 一番問題となるのは、その煩悩を対象化してそこに怒りと憎しみを常に増大することだ。執着も同じような結果を生み出す。上手く行かないことや自分に欠けているものに強く執着して、必死でそれを掴み取ろうとする。ものに異常に執着するのも強度の貪りであるといえる。それはもう病的な行為であるといえよう。 悟りとは、ただ勉強したり研究したり概念化することではない。そのような習慣が強い人ほど、悟りにほど遠いといえよう。定形的な見解を持つ宗教というような行為を行うものこそ、悟りから完全に離れている。 すべての概念や教えから離脱し、真実の教えに目覚めるしかない。 つまり、欲をかくなと言っているあなたこそ強欲な存在なのだ。これは教え諭すことがいかに難しいかということを物語っている。 ひとが生きる現実は、リアリティの本質を見誤った、カルマから生じる心に映しだされた幻影を実体のあるものだと対象化し、それを支配しようとしたときから人間の苦悩、つまり、煩悩に苦しめられることになる。 智慧に目覚めたひとは、すべての現象はすべて悟りにつながる。なぜなら、そのわけが、その現象がおきる原因を写しだせることができるからだ。子平も遁甲も風水も等しくそれを見届けた人々が、その智慧によって形にしたものなのだ。だからそれを理屈やロジックだけで読み解こうとする行為は完全に間違っている。 物事をわかりやすくすることは、単純にすることではないのだ。知恵に換算することなのだ。知恵あるひとは、必ずそれに大切な意味を見出すはずだ。それを直感できないものは、まだ概念の皮膜によって世の中を錯誤して見ているものたちなのだ。 知恵のないものに、無知のものに、いくら法(ダルマ)を説いても理解できないのは、自分が作り上げた価値観や概念、つまり、鳥かごを壊せないでいるからだ。一度概念の死を、精神の死を経験してみなければ、真実は見えてこない。 自らを本当に棄てることができないでいる。つまり、欲望に支配されているからなのだ。それを宗教が説く、苦行によっても、脅しによっても(サマヤ誡、戒律、法律の類)、洗礼的な浄化儀式によっても、それを目覚めさせることはできない。次元が違うのだ。心の本質に直接踏み込んでいける知恵の輝きこそが本当に人々を目覚めさせることができるのである。 智慧の輝きこそあらゆる戯論や概念の皮膜を剥ぎ取ることができる。 幻身は光明によって解脱させることができる。 妄念は自性によって止滅させることができる。 自他共に完全に現象を支配することができる。 これがゾクチェンの修行によって得られる智慧の成果なのである。 巧みな方便によっても悟ることは不可能だし、そもそも悟らせようなどとする行為や我々は天使や聖者だと本当に想っている人々こそなにも悟っていない煩悩のままに生きているものたちだといえる。(誰でもサギ師にはなれるが、本当のグル(導師)になることは非常に難しいのだ) 単なる魔術や魔法に惑わされてはならない。うそは必ずバレる。なにも悟っていない宗教家がわれは教皇であるような振る舞いをしているが、それは本当の教皇ではない。本当の教皇は宗教を否定するはずなのだから。 ひとが悟るには、個人の運命が多様なように悟り方も多様だ。 概念によって悟る人 象徴によって悟る人 本質を知って悟る人 しかし、八乗の教えでは今世においてブッタと同格にはなれない。死後バルドの中で解脱する可能性はあるとしても、誰もそれを保証できない。 空海は、即身成仏を説いたが、彼のさとりはゾクチェンの見解では、残念ながら幻身の悟りの段階に過ぎなかったと考えられる。 自らが解脱するしかないのだ。その道を本当に説くものこそ根本グルといえよう。 究極の悟りを目指すべきであり、その悟りの中で智慧と覚醒とともに生きるべきだ。 2009/06/12 14:15:29
人間が死に至ると肉体はなくなっても意識が目覚める。死後最高49日間は意生身、つまりバルドの世界を生きることになる。そのとき肉体はなくなっても人間であった意識習慣が強かったので意識は日常と同じで家族や知人とコンタクトすることができる。しかし、肉体がないので、その相手には自分の存在を認識することはできない。意識を読みと取るビジョンをもったものはその存在とコンタクト可能である。しかし、再生のバルドでは死後三日後に意識は目を覚まし、それから七日ごとに意識の死を繰り返しながら、二週間後には以前の身体から次の転生の身体へと意識が変容していくとされている。だから意識が執着している二週間前後の期間にだけ知人とのコンタクトが可能なのである。 『叡智の鏡』には死後その人を救うにはどうしたらよいかが書かれている。 シトの修行によって、死者を助ける方法を知ることは、修行者の誰にとっても重要な意味がある。シトと金剛サッタの修行は、死者を助けるためにもっとも大切な方法だ。だがそれ以外にもできることはたくさんある。 死に臨んでいる人とつきあうときには、まずどういう人格なのか、理解する必要がある。知り合いで、好きで、助けたと思っても、本人が仏教に興味をもったことがなく、一度も道を信じたことがなければ、死が訪れたときにも、やはり生きていたときと同じようにして、すなわち仏教に何の関心をもたないまま、死ぬのである。 方便に巧みで、高い悟りを得た修行者は、一枚の紙を準備し、そこに「ヌリ」と書く。・・・紙とそこに書かれた文字は、死者の意識をつなぎとめる支えのようなものだ。というのも、その意識には、もはや肉体がないからだ。そういう依り代がなければ、死者の意識に「ここにとどまりなさい」と言いたくても、意識がどこにあるかわからない。どのようにコミュニケーションしたらよいかもわからない。依り代を作れば、死者を象徴していることがわかる。それに向かって話しかけ、会話すればよいのである。 四十九日目は、「ラムテン」と呼ばれる。ラムテンは、道をはっきり示す、という意味である。多かれすくなかれ、四十九日が、再生のバルドのふつうの長さと考えられているのである。そのため、四十九日には、なるべくたくさんの導師や修行者を招いて、できるかぎりの行をしてもらうのである。以上が、ふつう死者のためになされることだ。 このように死者も生者もひとしく仏教にまったく興味のなかった人々を救うことはできない。 人間はこころ(セム)がすべてだと言ったが、こころが救われなければ、何の意味もない。絆が必要なのだ。意識の依り代が必要であり、帰すべき道をはっきりと示すことが、本当のグルなのである。もしその道をはっきりと示す人間やものがあったとしたらその存在こそブッタと呼ぶに等しいものだ。 現代の一般に行われている先祖供養や死者の供養(葬式)は、まったく死者の意識に触れえるものではないものだということをはっきりと認識しなければならないだろう。 そのような儀式によって人の心を救うことにはならない。まさに慰霊でしかない。 勝負は死後49日間にどのように行動するかにかかっている。 まったく意味の無い先祖供養や死者の供養を行ってはならない。(功徳を積むどころか悪業を積むことになる) 無意味な行為は、人を迷わし、悟りから遠ざける。人は不信と欺瞞に陥るだけだ。 筆者の行う「百人斬り」も「死者」を救う方法も根本はまったく同じものであったのだ。 六大課は生者を救い、シトの修行は死者を救う、どちらも行くべき本当の道を指し示すことなのである。 道を見出すことに意味がある。それは悟りから生じるのである。自らの透明で清浄な土台を悟ったとき、行くべき道がはっきりと見えてくるはずだ。 2009/06/06 14:39:10
人間が生きるモードに二種類のモードがあるようだ。 ひとつは、煩悩を思いのまま発散させて生きる人々 もうひとつは、煩悩を一切出さずに智慧に換算して生きている人々 煩悩のままに生きる人々は、すべてを汚染していく、智慧で生きている人々にさえ、汚染していく。その最初の顕現は、脈管・ルン・ティクレの汚染だ。みんな息が詰まって、ぐずぐずする。喉がいがらっぽくなる。しかし、こんなのはまだ序の口で、電話で頭が痛くなる場合もある。アレルギーのある人は、その煩悩汚染で痒みが発生してとまらなくなる。お腹を壊すこともある。しかし、それだけではすまないのだが。(筆者のイベントの「百人斬り」をやったあとこの煩悩汚染で一週間声がでなくなってしまったのです、被害妄想だと思われるかも知れませんが、そいった現象はそれを体験したものにしかわからないようです。これが本当の煩悩から派生した現象であり、それを知ることができるのもひとつの智慧と言えるでしょう) 煩悩汚染の当人は、やはり自分の欲望のままに生きていらっしゃる方々ばかりだった。汚染程度の低い方々は、タバコやビールを飲むことである程度開放することができるが、うさばらしてタバコや酒を飲んでいる人々の周りは汚染でいっぱいになっていることを自覚しなければならないだろう。その極みが社会的な感染症や伝染病に発展する。そして個人ではエネルギーの不調和によってほとんど人が癌などの難病を発症している。またエネルギーの無秩序は家庭や人間関係においても問題を発生する。配偶者や家族を失う人にもエネルギーの放縦がみられる。そのみさかいのないエネルギーをコントロールしなかったことがその原因といえる。しかし、当の本人がそれすら認識していないのが問題の根本にある。これは深刻な現代の社会問題でもあるのだ。人間の吐く息がすでに周りを煩悩汚染しきっているという現実を知って欲しいし、その被害にあっている人々がいること認識して欲しい。(そいった現象につけこんで霊感商法をおこなっている人々もいるので注意されたし) もし家族や知人にそういった現象が起きているようだったら、明らかに煩悩汚染による被害者だとみてよいだろう。 では、そのモードをどうやったら変えることができるのか。 仏教は、衆生の煩悩を鎮めるためにできた教えだといってよいかも知れない。 その方法には、 放棄の道 変化の道 開放の道 があるが、自然解脱の段階に至らなければ、煩悩を完全浄化することはできない。これはテクチューの段階で実現可能であり、さらに他者の煩悩すら浄化する段階に至るには、トゥーゲルの四顕現の段階にまで入っていないと無理がある。 このテクチューとトゥーゲルの修行を行うには三昧に熟知している必要がある。つまり、仏教が説く究極の到達点である三昧を経験するしかない。それには、師からの伝授が必要だ。 『ゾクチェンの教え』には三昧について次のように述べている。 「<真如>の境地の悟りは伝授をつうじて伝えられ、三昧によって深められる。師の役割は黄金を磨くための鉱物のようなものだ」。 たくさんの人々が自殺し、癌を発症しております。今すぐでも煩悩に目覚めてください。大切な人々がみな煩悩によって苦しんでいる現状を知ってください。 最も汚染度の高い職業に従事されている方々へ煩悩の災難には、自らの煩悩を自覚し煩悩を浄化することから始めようではありませんか。 阿藤 大昇 2009/06/03 22:42:41
我々は概念の皮膜を透して世の中を見ている限り、人生に何も変化を起こすことは出来ないだろう。 その概念の皮膜を透して、 放棄の道 変容の道 開放の道 をどんなに努力して修行しても、何の放棄も変容も開放も起きることはないだろう。 なぜなら、概念の皮膜に写った映像をどんなに放棄しようが、変容しようが、開放しようが、その皮膜を透して世の中をみているということ自体が人間を狭い限界へと閉じ込めてしまっているのだ。 あるひとは、煩悩でいう貪りの皮膜で人生を見ている。 あるひとは、煩悩でいう怒りの皮膜で人生を見ている。 ある人は、煩悩でいう無知の皮膜で人生を見ている。 それらの行為は、どんなに崇高で、大義名分が立ったとしても、すべてが限界に行き着き自己崩壊の道を歩む結果となる。 しかし、またあるひとは、智慧でいう明晰な何の媒介をすることなしに人生をみている。 またある人は、智慧でいう叡智の鏡(六大課)でもって人生を見ている。 彼らの行為は、あらゆる限界を超えて行為しているので、何ものもどんな状況であろうが、そのひとの行う行為を妨害することは不可能だ。むしろ何の行為も為さない内にすべては成就している。 成果を追い求めようとしないからだ。成果を追い求めることや結果を求めることは煩悩を発端とした行為であるからだ。それを求めても劫に渡って輪廻を繰り返すだけだ。 解脱の成果や結果を求めることも煩悩となってしまうのだ。 レッドクリフとは、人間の限界を超えて生き残ることに意味があり、自らの保身だけのレッドクリフでは何の意味も無いことを自覚しなければならないだろう。 レッドクリフとして戦えるひとは、概念の皮膜を引き裂いた、純粋で透明な意識をもった人々であり、そういった人材でなければ、同志となることはできないのだ。 レッドクリフに挑む人々に告げる煩悩ではない智慧ある行為こそ運命を変え世を本当に良い意味で変えることができる。そうでなければ個人的成長も世界的成長も有り得ないだろう。まして人を変え世を変えることなど出来ようはずはない。 2009/05/22 11:30:35
浄化を行うとするとき、密教的カテゴリーでは、概念の対象物を使ってより複雑なものや多様なものを使おうとすると、つまり、供物や物体化した本尊仏を対象に据えて、たとえ目をつぶって観想したとしても、到達すべき悟りのポイントともいえる心の本性に自らの意識を確立することは難しい。 護摩を焚いたり、あらゆる供養法を行ったところで、修行者は、心の本性に直接入ることはできない。まして心眼にロルパとして写った神仏を映像として対象化ものを祈祷したとしても、それによって菩提に触れたことにならない。それは単なる体験に過ぎず、我々のエネルギーの顕われの一端を見届けたものに過ぎないのだ。 そのような粗大なものを用いることは、到達すべき限界をつくってしまうだろう。ゾクチェンの教えが用いる白いア字の観想では、よりシンプルな我々のエネルギーの顕われに接近したものを用いることによって、よりリアルな本質にたどりつける可能性があるのだ。 あらゆる限界を超えるには、既存の修行システムや修行ツールすら乗り越えていくしかないだろう。 勝義諦、世俗諦といった二足の真理によって心の本性に到達することも、心の本性に入っていくことに壁をつくってしまうことになるだろう。 十の般若や十地は、もともと心の本性から自然に湧き出てくるものなので、あえてその行為を実行しようが、それを願おうが、また十二因縁を放棄しようが、その行為によって菩提を得られることはない。 物質や概念につながった行為によって菩提に触れ得ることはできない。なぜなら、菩提心とはそういうものではないからだ。 意味の無い行為、意味付けをしようとする行為、どのような行為も概念の皮膜を剥ぎ取らなければ、なにも真実の行為とはならない。 ゾクチェンというものを仏教的教え、哲学概念の中だけに閉じ込めてはならない。白日なものとして、あらゆる世界の道に通じる教えとして紹介していくべきであろう。 煩悩を増大させた行為 煩悩を放棄させた行為 邪魔がないという行為 邪魔が入るという行為 自己顕現が現象化したとき、どのレベルで現象が顕現しているかを観察する必要がある。問題が起きているならば、その行為の正否を観察すべきだ。正しいと思うのならば、断固として邪魔を振り払ってでも生きてゆけばよいのだ。またまったく邪魔が入らないことも問題となる場合もあるのだ。この正否は六大課によってその行為の正否を予報することは可能だ。 自らの覚醒を失ってしまった、自己を放棄してしまうことは、真の自分をなにかにあずけて生きることになる。それは自己の自由性すら失うことになるのだ。 大切なことは、自分としての個体性を失わないことである。 これを失ってしまったら人々は、なんらかの概念に支配されて生きていってしまうからだ。 全体性の中で自らの固体性を見出すべきだ、それこそが自らの菩提心の輝きなのだから。 2009/05/20 18:50:58
人間を本当に覚醒させるには、人類を本当に覚醒させるには、 究極の原因の乗 究極の結果の乗 の二つの教えが必要だ。 いずれのどちらも欠けてはならない。 その二つの教えが人間の存在にとって一番ひつようなものなのだから。 現代においてこの究極の二つの教えを説くことが最重要課題だ。 それ以外の方法によって人類を覚醒させることは不可能だろう。 目標を駆逐する、意味のない教えはすぐに立ち去れ、そして棄て去れ。 そこに本当の悟りはないのだから。 あらゆる宗教概念と宗教行為を駆逐せよ。 そんなものによって悟りを得ることにはならない。 その行為を菩提に結びつけることが大きな誤りといえよう。 なぜなら、それを結びつけることは自らを欺くことであるからだ。 その教えそのものが菩提であり、自らの菩提を見出すべきだ。 究極の原因の乗である「六大課」と、 究極の結果の乗である「セム、ロン、メンガク、テクチュー、トゥーゲル」 の二つの教えが融合した教えを説くことにしよう。 この教えの根本は、ゾクチェンの教え並びにボン教の教えのエッセンスをも乗り越えようとするものである。 そのためにはすべての宗教概念を駆逐する宗教介入をも行使しなければならないだろう。 これが阿藤大昇の三国志でもあるレッドクリフなのだから。 原因の乗においては、六大課による戦略予報士、戦術予報士となり、 結果の乗においては、虹の身体の血脈のラマとして法を展開する。 これによってすべての教えを根本から駆逐する。 2009/05/16 12:26:02
月に一回から二回において「ATOizm」の勉強会を行いますので、興味のある方はご参加ください。開催日時は、こちらの方位と時間と場所のからみから決定させていただきます。 参加希望の方は阿藤大昇古代中国運命学研究所のサイトのお問い合わせホームよりお申し込みください。 開催日時と会場と会費とをメールにて返送させていただきます。参加人数が少ない場合は、以前行った座談会形式となります。 第一回 ATOizm勉強会 「心の本性の導き入れによるリクパの体験」を語る 参考テキスト 『リクパのカッコウ』 阿藤 大昇
2009/05/13 21:39:00
このブログで、阿藤大昇は、何をしようとしているのか?そして何故、阿藤大昇となったのか述べなければならない。 まず、すべての「魔の教え」を破壊することが、ATOizmのテーマである。魔の教えとは、占いで、言うならば何も真実を語らない占いなど誰も必要としていないし、究極の果である解脱に向かわない教えを平然と説いている人々にその鉾先が向けられているのだ。 その根本は、人間の心が概念化してしまった幻影の構築物をすべて破壊して、裸になったリアリティの本質を見ることに他ならない。 運命学やすべての教えには次の二つの乗り物がある、 原因の乗 存在の原理 結果の乗 存在の開放 しかし、この教えのほとんどが中途半端な教えが説かれてしまったので、大半の人々はリアリティの本質を見誤ってしまったのが今置かれた我々のリアルな現状だ。 人間が本来求める道も本来に帰すべき道もすべて情報操作され、行くべき道を閉ざされてしまったというより他ない。 ときには概念の教えに阻まれ、ときには、リアリティの本質を見誤り、対象に支配されたり、自らの煩悩に翻弄されて、自らの人生の意義すら見誤り、魔の教えに支配されることもあった。 筆者は結局、自らが行くべき道を見出すのに20数年間も人生のときを無駄にしてしまった。 今までであったどの教えも中途半端でけっして解脱や真実の教えを、真実の自分を写し出すものではなかった。 それはすべて真実にたいしての情熱や熱意が十分ではなかったといえるのだが、問題はそんな単純なものではなかった。 悟りとは、みな単純なものであると思われがちだが、そう簡単なものではなかった。深遠な悟りとは単純ではあるが、そう簡単に把握できるものではない。なぜなら、本人がリアリティの本質に至ったかといことだけが問題となるからだ。 リアリティの本質にしたがってリアルに生きるには、差し引き無しのあるがままの自分を見出す必要がある。 そこに至るにはどうも個人差があるようだ。つまり、過去世の輪廻における経験が大きな要因となっているようだ。 概念や常識によって否定したり、無視したりすることは、誰でも簡単だ。しかし、その本質を見出すには苦痛が伴う。その苦痛を本当に乗り越えたものが、本当の真実に出会うようだ。 もう一つ重大な問題がある。自己顕現についてである。今置かれた自分が、 リクパ(明知)にあるのか? 清浄な顕現を見ているのか マリクパ(無明)にあるのか? 不浄な顕現を見ているのか をはっきりと区別する必要がある。自分が今どちらの顕現に属して生きているのかを自覚することはたいへん重要だ。それすら意識できなければ、悟ることは非常に難しくなってくる。 顕教であれ、密教であれ、ゾクチェンであれ、存在の開放の教えを説いたものであるが、その教えのエッセンスのみを学べばよい。それ以上のものはその教えにはない。 サマヤ戒というのは、一種の精神支配によって引き起こされる現象であるといえよう。それは人間の良心を支配しながら罪悪感を増大させて当人に教えの魔界へと誘うものであるようだ。密教は、サマヤ戒を重要としているのは、心がテーマであることを悟ったからともいえる。しかし、そのサマヤ戒によって人の心を支配することは、根本的には無理があったのだ。 それは一種の精神的な契約(脅しや脅迫も含まれている)であり、それを破ったからといって罪に問われるものではない。悟るための一つの方便に過ぎないのだ。そこに悟りはない。悟る課程の方便なのだということを自覚しなければならないだろう。それに支配されてはならない。 一番重要なのは、戒律や方便や修習ではなく、悟りそのものにふれることに意味がある。悟れないのならそんなものは、棄て去らなければならない。なぜなら、それらは、悟るためにつくられたある概念に過ぎないのだから。 悟った人にとっては、そのようなものはまったく必要ではなくなる。なぜなら、それが本当に成就した存在であるからだ。 筆者、阿藤大昇は、自らのリクパ、つまり、自らの最高のグルであるサーマンタバトラの心の境地に目覚めたということだけは、ここに明かしておこう。 2009/05/12 10:59:26
教えの伝統は、軽々しく書き換えてはいけないし、軽々しく伝えてもいけない。破戒僧ともいうべきものが説く教えを支持することは、サマヤ誡に反する。なぜそれがダメなのかというと、それらはすべて教えの血脈による神聖な伝授の力を持っていないからだ。まずその教えでは真実の悟りに向かうものではない。言い方を変えれば、真実の悟りをもてあそんだ偽りの教えに過ぎないのだ。 教えを説くとき、前のバージョンと自己の見解を明確に区別しておくことが必要だ。伝承や血脈を汚す、つまり、サマヤ誡を犯すことになるからだ。それすらわからずに行為に至っている(宗教行為といえるようなものではない)愚かな教えに従う人々は、サマヤ誡を破ったことによる不慮の災難に常に見まわれていることを知るべきだ。それこそ魔の教えと呼ばれるものだ。 それは一時も安らぐことのない、解脱にふれることさえない魔の教えとなる。魔の教えは必ず破壊されるか、自ら自滅していくだろう。 魔の教えとは、自分から災難を呼びよせながら、それを払うための祈願とその浄化行為を永久に繰り返さなければならない。その行為がすべての苦を生み出す原因となっているのだ。つまり、その教えでは、その苦しみの連鎖を断ち切って輪廻から脱出することはできない。 苦行といったような宗教的リハーサルは、すでに無意味なものであり、そのような宗教的演出すら自性を汚すだけに過ぎないのだ。だから宗教行為は、解脱や悟りの境地とはまったく無関係なものであるのだ。既存の様々な宗教行為は、菩提心の教えが語っている広大な真実の一片すら論じていないことに気がつかなければならない。 残念ながら愚かな教えを抱く者達は、概念の教えに支配されてしまうのだが、最も重要な決定的な違いは、身体や意識に関する自己顕現に問題があるのだ。 そのような人々は、脈管・ルン・ティクレがすべて三毒によって汚されきっているので、清浄なブッダの顕現を見ることも感じることもできないのである。この浄化法を持たない教えは完全にリアリティの本質を見誤っている。つまり、あるがままではないからだ。煩悩を増大して、煩悩の顕現に振り回されているだけに過ぎないのだ。それによって清浄な顕現の教えにすらふれることができないのである。(つまり、人は身口意がすべて煩悩に汚染されおり、これをどうやって浄化に導くかが、今の筆者が頭を抱える最大のテーマである。なぜそれが困難なものであるかと言うとその当人がまったくその事実を認識、自覚していないというこが重大な問題なのだ) それを克服するのに『ゾクチェンの教え』には、こう書かている。 ゾクチェンの「ミヨワ(不動の境地)」にいたれば、どんな動きにもさまたげられなくなる。カルマの薫習にしたがって動き、二元論的な意識や感情作用を支えているカルマのプラーナ(「レルン(業風)」の運動を含め、どんな動きによっても、妨害されなくなるのである。 『菩提心 金翅鳥タントラ』第8章より 清浄と不浄を識別する思考を捨てることによって、真実を追究しなさい。 なにものも捨てることなくすべてを結ぶ行を、五無間にわたって行いなさい。 微細なる部分も同じものとして区別せず、それを消滅させるのが、最高のサマヤ戒である。 すべての概念を突き抜けた存在を見出すことが究極の自己顕現であり、自らを象徴し、存在意味を満たすものだから。それは誰もが認めるものである。それをブッタ、つまり、根本グルと呼ぼう。 2009/05/11 9:40:24
知恵のカッコウ(リクパィ・クジュク) 世界の多様性は、その本性において二元性を越えたものでありながらも、(個体性をもって現象する)その個体性そのものは、心がつくりあげる概念の構成からは自由である。 如実なるものを思考することさえせず、ありのままにまざまざと現われた多様な現象はそれ自身においては絶対的な善なのである。 存在は自ずから成就しているのであるから、努力によって何かをつかみとろうとする心の病気の根を絶って、あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままにとどまることが、私の教え。 運命学には二つのカテゴリーがある。 原因の乗 結果の乗 「かくあるもの」とは、概念によって認識しようとすると意識が働く、 社会的・家庭的・個人的・文化的・思想的・宗教的・学術的な要素が概念を構成しようとする。 そのとき、個が全体の中でもっている運命的な多様性を考慮すべきだ。それを否定したり、無視したところにリアリティは存在しない。 個の存在、六大課が示すものは、 個体性(個人)の多様性 ローカル 全体性(世界)の多様性 オール であり、運命というもの、現象というものを捉えようとすると、 かくあるもの、つまり、概念化してものを認識しようとするとき、二元的な見方で捉えようとするのだが、我々の心は、すべての存在や個の存在をまるごと認識することは所詮不可能だ。ただいえることは、すべての源泉は二元性を越えて存在していることだ。 心が作り上げる概念は、思い込みやロジック、システム、テクノロジー的なすべての思考は、かくのごとく現われたすべての現象から自由である。つまり、その現象を束縛することも、支配することも、操作することも、特定するすることも、区切ることも、破壊することも、絶対不可能である。そして言葉で言い表せるものでもない。検索不可能であり、表記、数量化することはできない。 如実なるものを思考することさえせず、とは、対象化されてしまった概念にさえとらわれることがなければ、概念の再構築は、おこなわれることはない。つまり、それすら、越えたところに裸のリアリティは存在するから無思考でなければ、それを体現することができないのだ。現象と概念はどこまでいっても平行線であり、その関係を切り離したとき、始めて真実がみえてくる。これが心と心の本性の違いである。 まざまざと現われた現象は、あるがままに自己顕現したものは、つまり、目の前や夢やリアルに自覚したもの、或いは自分の未来に関することが現われたとき、 善悪を超えて現われている。善悪の価値判断を超えたところでそれは起こっている。しかし、人は善悪、吉凶、順悖といった形でものごとを見る習慣ができてしまっている。 存在そのものが、すでに自然成就しているので、何かをつかみとろうとする努力は、すでに心の病気であり、本性を見誤った行為であるから、あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままとどまることが、私の教えと『リクパィ・クジュク』は説いているのである。 リアリティの本性に従ってリアルに生きることこそ、ゾクチェン・セムの教えの心髄であり、無努力、無思考、あるがままといった行為はすべて人間の本性に本来備わったものであり、それが自然に発露したものであり、それが教えであった、といえよう。(つまり、リアリティの本質に迫るために子平も遁甲も使ってよいのだ) そのリアリティの本性は、智慧そのものだからその中にとどまることは、もうすでに解脱を果たしている。なぜなら、存在そのものが自覚した智慧とともにあるからだ。これを土台の透明性ともいい、すでに心は常に、心の本性の中で三昧とともに覚醒している。 『リクパィ・クジュク』の訳文は『セム2号』から引用致しました。 2009/05/09 12:23:55
個人ゆえの煩悩というのは、誰にも理解できないものであるが、智慧というものは、誰もが理解できるものである。 なぜだろう。煩悩とカルマは、極めてローカル情報であり、その置かれた人でなければ絶対に理解することは不可能であろう。それは言葉や概念によって言い表せたとしても、その苦しみは味わったものしか、体験したことのある人にしか、その本質は理解できない。 激しい突風の中では、すべては剥ぎ取られ、引っぺがされる。メッキは剥げる。つまり、ウソはバレる。なぜなら、本当のリアリティとは、そのようなことを指す言葉であるからだ。何ものもごまかすことはできない。 いかに人間は表面を飾り、内面に欺瞞を抱えて生きていることか。それは現実的な価値基準によって自分も他人すらも狭い壁に押し込んでいるからだ。その見解を破壊できなければ、そんなものは放っておいても自然に破壊されていってしまうだろう。 我こそはブッダの教えを信奉し、中道の教えを、真理をスローガンにして説いている輩は、ブッダの心髄をなにも理解していない。そのような輩の説く教えは、何の意味があるのだろうか。そんなものは誰も必要としていない。 野に咲いているものや、自然に自生しているものに、何らかの作為する行為ことこそ、大きな穢れある行為だ。そのものの本質や本性も自性も、汚していることを自覚しなければならないだろう。 そういったものは人や環境を害するものに成り下がってしまうのだ。それに触れたとたんに極度の汚染のため病を発症する危険性すらある。 一時、目の前から現象が消えたからといって、眼の前から排除したからといって、悟りに至ることはまずない。償わなければならない。その意味がわかるならば、しかし、それすらわかっていないものに、それを求めることは、愚かなことかもしれない。しかし、それは許されるべきことではないので、放置、放任してすむ問題ではない。それを実行しないことは、自らのカルマの負債を何も解消していることにはならない。そのやりかたはまちがっている。なぜなら、何も解決に至っていないからだ。その行為そのものがサマヤ誡をさらに汚している。 それはすべてリアリティの本質を見誤ったからだ。正しい道を示すことができなかった自らの過ちを認めるべきだ。悔い改めるならば、謝罪すべきだ。自分の犯した罪を自覚しなければならないだろう。 そんなものたちが真理を説くことなど不可能なのだ。なぜなら、存在そのものがすべては完成しており、それ以上の完成を求めることがすでにまちがっており、それはすでに病気であるからだ。 そのことを理解せずに、まだ努力している人々に告げなかればならない、愚かであると!いまある、あるがままの存在のありようを認めることがなければ、劫の間進んだとしても、真実の悟りであるクンツサンポの透明な光を見ることは不可能だ。なぜなら、あなたは、すでにブッダと同格であるからだ。それを悟っていないからだ。 求めるものは、そこになく、すでに完成を果たしている。それを見ずに人々は業火を燃やし続けている。それが人間の正体なのだから。 土台の透明性と呼ばれる自己認識がないものは、ただの情報であって、自己に直接的な関連がなければ、智慧とはいえない。ロジックやマニュアルが言わせた言葉と本質から出た言葉はまったく違う。その違いはとても重要だ。 この文章をFさんならびにいまだに理解できていない人々に送る 阿藤 大昇 2009/05/07 11:50:27
人間の根源は、三身と五体に集約され、厳密にはこの世に「心」しかない。そしてその心はその三身と五体を顕現されることができる。この三身と五体は、人間の存在そのものであるといえ、三身は、それぞれの存在次元を指し、五体は、存在の構成要素をあらわしている。 人間は常に他に依存して存在している。言い方を変えれば、二元的な見方によって「心」は存在する。 運命学は後者の五体の智慧のあらわれであり、リクパの智慧にあるとき、五大元素は、清浄な智慧に変わる。この五大を五音として捉えた、子平推命は、人間の存在を音、光、光線、つまり、三身と捉え、そのエネルギーが五大と混ざり、個性を生み出すと考えたのである。子平推命は、この五大の力量を計るテクニックをもっており、個人としてあらわれる運命のエネルギーにおける側面を計り占うことを可能としているのだ。 そのとき、仙道が説く、三宝の精・気・神は五大のあらわれの側面であり、この三者は、中国医療の方剤(漢方)・気功・鍼灸に対応している。占いでは、遁甲・六壬・太乙が対応している。 ゆえに、子平漢方術は、子平推命から計量する精神の状態から治療を試みたといえるのだ。そして神の不調和は、鍼灸によって調整し、精神の二つのバランスを取るのが気功治療なのだ。 この精・気・神の三宝は何らかの方法によって変容させることが可能なために仙道では三宝と呼ばれているのである。 これは身体内部や心の問題に有効であるが、人間の外部にあらわれる様々なトラブルには、三式と呼ばれる古代中国の占いよって対応したのである。 社会的な様々なトラブルは、多くは出生ポイントからどの地点を用いたかによって、大きな歪が生じるようである。それを占うのが太乙神数なのである。問題を生じるほとんどの人は太乙における凶方位を突いていることで発生している。反対に社会的に成功している人はまさにこの太乙吉方位を用いているのである。 人事関係は、六壬神課を用いてトラブルを未然に防ぎ、良好な和合時間を用いて、問題を小さくしていくのである。 奇門遁甲は、地の利を預かり、精力や気力こそが、財産、名声、地位を維持できる考えており、それを外部に顕現させることが、奇門遁甲なのである。これはある特定の方位やある形状からその財力や知力の状態を計り、また方位を使用することによってそれを補充していくのである。 このような占いの真実を誰もが顧みることがなかったため現代の占いは秩序を生むどころか、混乱と錯乱を生み出すものに成り下がってしまったのだ。 これは現代における深刻な問題であるともいえよう。運命学は特に原因の乗と結果の乗の二つ側面があり、原因を突きとめる方法とそこからの開放、解脱を説くことが本道であり、誰もが運命学の本道を見失っている。占いは単なる迷信ではなく、どんな占いであれ人間の本質が顕われ出たものに過ぎないのだ。そこに善悪も優劣もない。しかし、智慧の現われで誕生した占いや運命学でなければ、このリアルな現実を乗り越えられない。現実を甘く見てはならない。 そのためには自己顕現を観察するしかない。自分の顕現が智慧による顕現なのか、煩悩から生まれた無明の顕現なのかを明確に区別する必要があるのだ。そこにリアリティの本質が隠されている。それを見出すべきだ。そこに解脱、開放の鍵がある。 2009/04/22 20:42:57
ゾクチェンという教えは、伝統的な教えであり、今でも厳格な血脈によって継承されている。まったく血脈などもたない私などが語る資格などないのかも知れない。しかし、リメー派と呼ばれるゾクチェンの思想家たちは、すべての派閥や門派の開放を行って教えの本質を遍く全世界の衆生に向けて熱心説いた導師は数知れない。本当に新たな時代の幕開けを切望して教えを説いた導師は、教えの伝統をこしらえようなどとは、露ほど想っていなかったはずだ。 思想は教えは常に進化している。なぜなら、混沌と遷移していく、現実は、多様性に富み、ひと時も安住のときなどないのだ。過去の名声や権威に胡坐をかいてはならない。そんなものはひと時の安住に過ぎないからだ。 ただ過ぎ去るときに最も必須な教えを説くべきだ。過去の教えのリニューアルでもよい。埋もれた誰も知らされることがなかった教えや時代によって誰もが省みなかった教えは数知れない。 今こそその教えを説くときが来たのだ。誰も知ることがなかった。いや知らされることも触れることすらできなかった教えが存在するのだ。 それを筆者は説かなければならない。その極みに達してしまったからだ。天は、地は、そして人はそれを求めている。 あらたなる鼓動とそこに集う人々に期待を込めてここに決意を表明する。 あるがままのリアルな本質を見届ければ、すべての現象の幻影は、吹き飛ばされ、あるがままの自分が剥き出しになって輝き出すであろう。それが私がすべての人々に向けて説かなければならない教えなのだから。 そのような埋蔵経典は数知れない。日本において開示されていない埋蔵経典がなんと多いことか。 それを求めなければ誰も何者もそしてどんな生き物であれ悟りを得ることは不可能であると言えよう。 出合った人々は、すべて神仏を自分の外部のものであると対象化して拝んでしまっている。これは本当の仏教はない。崇拝するのは宗教であって、仏教は自己に秘めた仏性を開眼することであって決して神仏を崇拝することではない。その態度は、自らの存在を放棄し、限界概念の中に大いなる自分を閉じ込めて、存在の本当の在りようであるリアリティの本質を完全に見誤っている。なぜなら、それでは何の問題も苦悩も解決に至らないからだ。それは愚かなことだ。 全体性の中で個体性の存在の在りようを見届けることができなければ、個人として生きる意味も、全体における存在価値すら理解することは不可能だ。それは自分の行き場を失うことになる。 そこからの開放を説くことが本当の教えであり、現実の今目前に置かれたテーマを乗り越えていくことこそ、人間が本当に必要とする教えであり、智慧の輝きなのである。 2009/04/07 12:25:52
占いは単なるロジックではない。占いを習うのにまず良き師と良書を選ぶべきだ。そして占いを習うのに絶対に公私混同してはならない。師弟関係や弟子同士においてしがらみをつくってはならない。それは法性を汚すことになるからだ。自性を汚してはならない。(そのような場合、ゾクチェンでは、ガナプシャ(施餓鬼供養)や六道浄化を行って問題を小さくするのである。) なぜなら、ゆがめられたもの、妥協されたものに本質は宿らないからだ。一般に出版されているまったく伝統を無視した安易な占いと六大課とは、一線を画するものである。 本だけを信じて勉強するのも真実ではない。どんなに優れたマニュアルもそれを使用する人物によって真価が決まる。品性に添わない者が使えば穢れたものとなる。というよりもその人々が書いたものや発した言葉に真実は宿らないし、本質を語ることはない。なぜなら、真実に達していないからだ。占いはブッダの智慧であり、リクパが見出した智慧であるからだ。マリクパでは到底理解できるものではない。 子平推命や奇門遁甲がなぜ怖いのか?それは人間の本質にかかわっているからだ。あなたは病気の治療に専門家を求め優秀な医師を捜すだろう。占いもまた人徳のある優れた占い師を見出す必要がある。占いはとくに運命学や方位学は、ときに人の命運や将来を左右することがあるからだ。政治家のやるゲームやこどもの遊びではないのだ。人の命運や生死にかかわっているのだ。それをあなたは受け止めるだけの器があるかのみを問えばよい。わずかな判断ミスも命取りであり、すべて自らの責任となり、カルマを積むことになるのだ。徳を積むどころか大きな悪業を為すことになる。リクパに達していないことが原因であるといえよう。マリクパではものの本質が見えないので、どうあがいても、どのような戦略や戦術を講じても無駄であろう。なぜなら、目先の利益や名声を追って大局を見ていない、つまり、真実を見ていないからだ。自分がその器になる決意をしなければならない。それが法であり、教誡だ。 占いを行っていくと(一般の人々にも見受けられる)対象に支配されて風貌が豹変していく人々が多く見受けられる。自分の人相を常に観察すべきだ。心の汚染をすべて投影してしまっているのだ。そのような場合、浄化する必要がある。放置しておくと深刻な問題が生じてくるからだ。 マリクパの思考が生じていないかチェックする必要がある。そのとき、必ず自分でも気がつかないまま五大煩悩が増大している。怒り・驕り・そねみ・貪り・愚かさ、から自分の利益を追って他を排除し、むだなおしゃべりや暴言を吐いたり、優劣に拘り優秀な人々に危害を与え、物惜しみケチや欲張りになり、自分より弱い生命体に危害を与えるようになる。それはすべてマリクパが生み出す幻影に過ぎないのだ。 マリクパはリクパによって破壊しなければならない。五大煩悩とその行為を智慧に還元するのだ。すべては空であることを知ること、すべては平等であること、個別の差異を知ること、果たすべき事を知ること、すべてを写し出す鏡の境地、の智慧から不動心・正しい情報を生む・妨げのない言葉を発し、何もしないまま成り立つ行為をし、変化しない身体を得る。というゾクチェンの境地に達する。古のその昔、人は輝いていて空を飛んでいたという。みな虹の身体を獲得していたのだ。今世紀は、リクパの人類を生み出すことが重要であり、それが筆者の仕事であるといえ、今こそ迷えるすべての衆生を救済するときが来たのである。 これは20数年間、五術六大課を実践して得た結論であり、我が道である。そしてこれが今年度に行う最大のイベントである、赤壁の戦いともいえる、阿藤大昇の「百人斬り」ならぬ「百社斬り」の始動なのだから 2009年 己丑歳 清明 阿藤 大昇 2009/03/03 22:28:05
心とは、人の心を映し出す、心とは、対象に執着したものしか映し出せない。しかし、心もまた顕現に過ぎないのであるが、心を浄化するということはどういうことだろう。 ある人は神仏やラマに供物を捧げることだと想っている。 ある人はマントラ(真言)やお経を唱えることだと想っている。 ある人はブッダに奉仕することだと想っている。 まして自分の欲望や想念を成し遂げよう想う人は、確かに仏教的観点からすれば、不浄といえる。問題は当人が不浄なのか清浄なのかすらまったく観察していないところに問題がある。 人は、物事を映し出してそれと同化してしまう傾向がある。その対象物が善であれば善を為し、その対象物が悪ならば悪を為す。 問題は映し出されたものに同化して自分の顔や姿がどのようになってしまっているかを直視する必要があるだろう。 行為の善悪を思考すること自体、裸の自性を穢していることに気がつくだろう。 だから把捉せず放下することが供物となる。 何も語らない寂静な不動の境地がマントラとなる。 無行為の活動が原初的知性の障害を(穢れ)取り除く。 ゆえに立派な行為も悪なる行為も平等であり、あるがままでないことが裸のリアリティーを穢しているといえよう。あるがままであれば、何にものも汚すことはない、なぜなら菩提心はまったく染みひとつなく清らかであるからだ。 菩提心こそ清浄な心であり、それと我々の心や意識が不二となったとき心は完全に浄化される。したがって二元的見解に陥ったとき、心はすでに汚されてしまっているのだ。 人の心を汚さないようにするには、まず自分の心が汚れないようにあるがままに生きて行く他ないだろう。 宗教行為ですら我々の心を汚してしまうのだ。だから正しい認識活動と無思考、無行為の活動によって原初的知性を目覚めさせ、自性に住しながら何ものにも汚されないという確信がすべてを浄化するのである。 2009/02/22 18:32:00
~劉伯温の子平推命~ はじめに 『滴天髄』は、子平推命の完璧な秘伝書(ウパディシャ)として絶大なる名声を博しているにも拘わらず、その内容の心髄を本当に理解している人は、現代に於いてほんの僅かであることは紛れもない事実である。故張明澄先生の『滴天髄』の注釈が発表されて早、数十年が過ぎ去ってしまったが、その本質を悟った人、もしくはその血脈の伝統を現代に於いて正しく行っている人は果たして何人居るのかたいへん疑問である。門派の掌門は十年に一度この『滴天髄』に注釈し直す伝統があるという。故張明澄先生と筆者が初めてお会いしたときに語ったことがある。筆者が発見した最古のテキストの明代の劉青田、もしくは誠意伯劉伯温の著作とされる『滴天髄』を張明澄先生にお見せしたところ、この『滴天髄』の原典の信頼性と原文の正しさを高く評価していただいたことがあった。この伝統の血脈を絶やすことなく筆者なりの最新の『滴天髄』の注釈を世に出す必要があると想い、前回に発表した『三命奇談滴天髄』のタイトルを新規一転して改め、今現時点における最新の研究成果を土台とした『滴天髄』を世に問う必要があると考えた。劉基は、完全に腐敗してしまった中国の伝統を復興するために努力を惜しまなかったとされている。それもそのはずである。それはすべての人々に向けて「郁離子」というペンネームを用いて本当に腐敗した世を救済しようとした劉基の心髄の結晶であるこの『滴天髄』の本当の意味と価値を本書で紹介しようと筆者は試みた。 明澄透派の子平の源流は、宋代の子平創始者である徐大昇の『子平三命通変』の『百章歌』と本書の原著者である劉伯温の『滴天髄』の原典より派生しており、それを忠実に著わしたのが初代梅素香の『子平大法』や十代目の王文澤の『子平心得』であるが、しかし、それらの子平は、要点の粗大な部分を明らかにしたものであって、術法の大いなる完成状態に達していなかったのである。そしてその伝授の血脈において王文澤が発展させた最先端の子平は、より微細な見解によって理論展開を行ったのであるが、王文澤の『子平参禅(十六通変)』は、『滴天髄』の扶抑理論によって誕生しており、また最終段階の秘伝を説いた『子平修密(無学訣)』は、『滴天髄』の調候理論によって誕生したと言うことができる。しかし、その具体的な内容は子平の伝統的な古典である『百章歌』の格局究明方法に共通点がみられ、また梅素香が『子平大法』で批判した『欄網江』のような子平のように十干を命式の構成要素にあわせて季節ごとに分類して究明していった方法が十二分に発揮されているようだ。子平において扶抑と調候は車輪のようなものであり、どちらがかけても子平の最終的な結論に決して到達することは絶対にないだろう。つまり、扶抑と調候から映し出されるものは、子平が主張する格局と呼ばれる、存在のありのままの本質を投影するものなのである。 明澄透派の子平は、現代に伝授の血脈を完全な姿で世襲しているようであるが、現代においてその意義を問い正す必要があると筆者は考えた。というのもその真意が裏目に出て優れた術法は、時代が下るに従ってマニュアル化されてその真価を大きく見誤ってしまっているケースが多いからだ。伝授の血脈に問題が生じて来たのは、その術法における原典回帰の敬意を払うことを忘れてしまったからではないだろうか。筆者は門派を創ることにまったく興味はない。学問とは、学術とは、すべてに開かれてこそ、すべてを救う教えになるのではないだろうか。すべての秘伝は、劉伯温の『滴天髄』の手の内にある。なぜならすべての秘伝を生み出す土台がこの『滴天髄』の中に蓄蔵していることを新たな執筆によって筆者が改めて認識したことに他ならない。 『滴天髄』は、単に占いのロジックを明らかにしたものではなく、仙道が説く心体を構成する精気神におけるエネルギーの各レベルの質量を測ろうとしたのであるが、その機能を通変によって助気・洩気・奪気・殺気・生気といった具合に分類してその状態を体用・扶抑・損益・衰旺・中和・清濁・真仮・剛柔・順逆・寒暖・燥湿といった概念によって認識しようとしたのである。『滴天髄』で説く「人元用事之神」とは、まさにその気のレベルの微細なエネルギーのありようを説いたものであり、天元は神に、地元は精に対応し、仙道でも説くこの精気神の三寶を読み取ろうとしたのが三命と呼ばれる運命学の全貌なのである。個が対象化したこの三寶と心体(識力)のありようこそが我々が現実に生きている社会・家庭・個人の多様性の側面を映し出しているのである。『滴天髄』とは、まさにそれこそが天の精髄の滴であると主張するものなのである。 本書が子平運命学の学術的発展に何らかの布石となれば幸いであり、明澄透派の神聖なる伝授の血脈の新鮮な完全復活を切望するものである。 2009年 立春 阿藤 大昇 2009/02/01 14:51:07
煩悩を放置したときに三つのプロセスによって自然解脱させることができるが、 チェルドルは、観察することによって解脱する。 シャルドルは、生じたとともに解脱する。 ランドルは、自然におのずから解脱する。 さて煩悩が解脱した後それはどのようにして知恵に変わるのだろうか? トゥーゲルの修行でおこなう「四つの灯明(仙道でいえば一種の神功に似ている。)」の知恵のルンによって知恵の扉が開かれ煩悩は浄化され自然に知恵に変わっていくのだが、煩悩から出た不浄な顕現も浄化されると不浄な顕現が消えて清浄な顕現となって修行者の前に立ち現れてくる。 知恵は、本来、人が潜在的にもっているものであり、対象にふれたと同時に生じるので、ひとつのエネルギーとなって機能するようである。 人間の五大煩悩は、五大元素にも通じており、気のエネルギーに関しては、仙道において、対象化したものと捉えたならば、人丹のような房中術のように若い男女から生気を奪い取ることが目標となってしまうのだが、煩悩が知恵となり、それを対象化せず自らの原質のなかにそのような潜在能力があることを本当に理解したのであれば、若い男女を見た瞬間房中術というような行為に至らなくとも自らの潜在能力の原質を開示し、発動することが可能なのである。 まさに写し出された存在とまったく同じエネルギーと同化する、つまり、マハームドラの境地であるが、さらに一歩前進してそのエネルギーを発動することが可能となる。これが仙道でも説く不老不死の術であるともいえよう。(しかし、煩悩を完全浄化しないまま不浄な顕現とともに一体となってしまうとむしろ知恵を得るどころかその人の持つ有害な部分もシンクロしてしまうので新たな問題を生み出してしまう。これはマ-チンや密教が抱える問題ですね。) 知恵を対象化しなければ、五大元素の原質の純粋なエネルギーとなり、個人の身口意と宇宙に関連する天地人は、仙道が説く三寶の精・気・神に対応しており、そのエネルギーがそれぞれを調和することで個人的なゆがみや対家庭、対社会へのトラブルでさえ解決に向かい、さらに識も力でさえ鍛えられて強い心身が得られるのである。 つまり、煩悩は、自然解脱させた後に大いなる力となって我々を救うパワーとなるのである。 煩悩 知恵 エネルギー(虹の身体) 煩悩こそ実はブッダの行為であり、人類の救世主であったのだ。煩悩を知恵にそして偉大なパワーを開示すべきである。ゆえに顕教の教えのように煩悩を放棄したり、密教のように故意に変化させ弄ってはならないのである。 人と人との出合いは、まさに知恵を分かち合う存在であるようだ。優れた特性をもつ人やどうみても素晴らしい人、非常に魅力的で素敵な人との出会いは、敵味方や善悪さらには老若男女を問わず知恵と勇気を与えてくれる存在であり、2009年の年頭にあたり、多くの素晴らしい出会いをお勧めいたします。 「新春大斬り」にご参加くださったみなさま、スタッフのみなさま、お疲れさまでした。阿藤 大昇 2009/01/24 2:09:23
あらゆるものをあるがままにする教えとは? 煩悩やどんな思考が生じようともそれを無毒化し、知恵にもどし、虹の光に変容し、空間に帰す教えである。 煩悩には、執着、自尊心、嫉妬、無知、貪り、怒りがあるが、それは我々が転生輪廻する六道の神界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界に対応している。これは我々の心が生み出す境地であるといえよう。 煩悩が知恵に変わるとはどういうことだろう。 執着は、二元的見解に陥らないことであり、明知(リクパ)の境地にあることで克服できる。 自尊心は、我々が人間として存在する理由であり、すべての人々を尊重すべきだ。傲慢は変成しないことである。あらゆるものをあるがままに放任するのである。特効薬を必要としないのだ。 嫉妬は、自分の器を越えた行為であり、なにもかもも支配しようとしている。 無知は、原初の知恵と結びつくことで乗り越えられる。それが無分別の知恵であり、明知(リクパ)である。 貪りと怒りは、受容と拒絶による二足の判断によって生まれ、それが発展したときに貪りと怒りになる。 貪りは大楽の悟りとなり、 怒りは解脱に帰結する。怒りは光明に対応し、我々の報身の次元である自性清浄にある。 この清浄なる自性を汚さないことである。無知、貪り、怒りの三毒は、我々の清浄な自性を汚してしまう。思考ですら我々の自性を汚してしまうのだ。 ブッダの三身である法身・報身・化身は切り離すことができない三身一体をなしており、 法身は空に、 報身は光明に、 化身は慈悲のエネルギーに、 それぞれの次元として存在する。我々の存在は本質的には空間に存在する音・光・光線といった一種の放射エネルギー体として個別に顕現しているように見え、思考と意識を生み出す脈管・ルン・ティクレも宇宙と我々の存在を映し出しだしたものであるといえる。 無思考が生じる境地、なにが生じようと無思考が生じるのみ。そこに意識や煩悩や無知が潜む隙間はない。心を超えた心の本性、つまり、我々の法性を剥き出しにしてそれにふれ続ける。それがATOizmの序章である。 2009/01/18 10:10:22
煩悩は、いや増しに増殖し、人々の無知から生み出される煩悩とカルマは、深刻な問題を引き起こしている。これにまったく気がつかない人々がなんと多いことか。 煩悩は、我々の存在理由であり、煩悩を解決するためにブッダは、ダルマをお説きになったのであるが、煩悩を放棄することで、特に身・口・意の側面を抑制することによって煩悩による影響をコントロールしようとしたのである。心を寂静な境地に置くことによって煩悩の発生を最小限に押しとどめようとしたのである。しかし、我々の心には思考の動きがあり、心を常に寂静な境地に繋ぎ止めて置く方法はないのである。 この思考の動きをコントロールしようとしたのが密教であるといえる。密教は師の悟りが弟子の悟りとなるため、極めてローカルロジックの仏教だといえる。結果を道のように進む教えであるので、清浄なマンダラの顕現を浄土として、人が死んでからバルドにあるとき、この顕現体験によってブッダに回帰するものである。 密教は、煩悩を知恵に変容する変化の道を用いるが、それは一種のマジックに過ぎないといえよう。煩悩はいや増しに増えていったとき、誰も止められない状態にまで発展する。個人的にはその人の外部や内部を損傷し、煩悩がカルマととも集団に向かえば、感染症や伝染病のような深刻な問題を引き起こす。それを解除するには、煩悩の特性をよく理解し、認識する必要がある。 正しい認識活動を知恵の眼、つまり、本当の知性というのであるが、人々はみな無知と煩悩によってすべてを写し出す鏡の境地が曇らされ、誤った認識と行為を行っている。そしてその心には煩悩が含まれているので、すべてのものを暗くし、正しい認識活動を妨害している。 自分の行っている行為がすべて本来の自分の清浄な境地と一片たりともズレがない生き方をしていないから現実が予期しない方向に向かうのだ。 ゾクチェンの教えは、心の寂静な側面と思考による動きが出る側面を本来の原初の境地であるリクパに統合するのである。煩悩を放棄したり、変化させることなく、あるがままに放置し、放任する。そうすれば道において立ち現れてきた煩悩も自然に浄化され空間に消えていく。煩悩が浄化しきれない場合は、何かの縁によってまた増殖し、違った形で顕現してくる。そのときの煩悩は、怒りが憎しみや憎悪に発展しているので、もはやだれも止めることができないくらいに成長している。 煩悩を無毒化し、知恵に変え、光に変えて空間に帰してあげる必要がある。一般の人々は意識はおろか口のレベルの脈管・ルン・ティクレすらも三毒の無知、怒り、貪りにまみれ、完全にブッタの清浄な顕現がみれないように身体の仕組みすら二元的な煩悩に支配されてしまっている。ならば身体は、抓ったら痛いようにすべて二元的なありように支配されそこから一歩も抜け出せないかのようにみえる。 しかし、煩悩は物質的なものではないのだ。煩悩のありようを完全に悟れば、それを克服する可能性も出てくる。 運命を変えようとしたり、今ある状況を突然かえたり、壊したり、拒絶してもなにひとつ変えることはできない。そのように人間は存在していないのだ。 まず自分を観察することだ。そしていまある現状から自らのリクパに辿り着く以外に方法はないだろう。朝目覚めたときの透明に輝いた意識こそ自らの最高のグル・サーマンタバドラの心の境地であり、それは誰もが持っているリクパの境地そのものなのだ。 その中に常にとどまるのがゾクチェンの修行の根本であり、無上の教えやブッタやグルを他に求めることではなく、みずからにすべてのありようが蓄蔵している。ただそれを純粋に素直に開くことが大切なのである。 「新春大斬り」のイベントもうすぐですね。煩悩と無知に塗れた身口意のそれぞれの次元を完全にぶった切って完全浄化し、虹の光の身口意に変容しますよ。 2008/12/29 22:36:07
『リクパ・クジュン』は、知恵のカッコーと呼ばれるゾクチェンの教えの伝統である。しかし、この伝統の歴史の中に表と裏の教えがある。 ヴィロチャナが初めてチベットにもたらしたものは、ゾクチェンの教えの規模と体系を説いているが、もうひとつの教えは、ボン教の伝統の中にある。ゾクチェンの秘密の教えである『リクパ・クジュン』は、トゥーゲルの教えを隠喩を用いて書き表したものである。 パドマサンバは、双子であったとされている。つまり、伝授の血脈は血縁によって受け継がれていたのである。この時代は、シュリー・シンハが活躍した時代と同年代であり、ゾクチェンの教えが大いに発展した時期といえよう。 今までのゾクチェンの教えの伝統は、ブッダの教えのように小乗的な教えであったといえるだろう。それは、つまり、伝授の血脈の導師だけが、虹の身体を悟りを獲得しており、それ以外の教えの伝統には、そのような顕現は立ち現れていない。少なくとも現代の日本にはその伝授の血脈は存在していない。 ゾクチェンの教えが大乗の教えとなれるのかは、これからのテーマであるといえるだろう。 テクチューの修行は、身体を微塵の状態に還元し、トゥーゲルの修行は、その微塵となった物質次元を清浄な光の次元に還元しようとする。虹の身体を獲得できなければ、完全なる境地(ブーミー)には到達できない。 テクチュ-の修行に似た教えは数多くあるし、同じ結果に到る教えは数多い。しかし、その教えでは、限界に達するだろう。その教えでは、輪廻、つまり、二元的な在り方から脱出できないのである。 トゥーゲルの修行は、速やかに仏性に到達することができる。それは、本来人間が持っている潜在的な能力を開花させるからである。空を凝視したり、太陽や月の光を眼に入れる修行は、人間の視神経以外のもうひとつの神経管を開くために、特定のポーズと呼吸と意識と凝視が必要なのである。その4つが三昧のリクパにあるとき、思考は解き放たれ意識は完全に浄化される。 そのとき、意識は大空のように晴れやかで雲ひとつない。一点の穢れもなく清らかな意識の中で透明な輝きの中に包まれていることを感じることができる。あらゆるものを浄化する知恵をもととした慈悲のエネルギーはけっして途絶えることはない。 さまざまな教えが説かれたけれどあらゆる限界を超えていくには、ジャリュー(虹の身体)の教えを説く以外ほかはないだろう。 2008/12/19 19:10:04
古の時代にある教えの伝授の血脈が効力を失ったとき、虹の身体の転生活仏であられた、ガラップ・ドルジェは、ゾクチェンの教えを地球サイクルに初めてもたらした。この現代に虹の身体の転生仏がもし再生しているとしたら、新たな教えが地球サイクルで説かれることを意味している。 釈迦の教えも密教の教えもゾクチェンの教えもそのような伝授の血脈によって伝統を保って来ている。 しかし、今の現代の意識の浄化と煩悩を解除する教えとしては、どれもみな役不足の感がする。 我々は、今起きている現象の変化において成長し、進歩しなければ、現代のこの状況を打開することは、無理なのではないか。 新たな伝授の血脈の教えの蘇りによって、息吹を、新鮮な息吹を取り戻す必要があるだろう。 転生活仏は、あらゆる伝統や血脈という限界を超えている。その教えが復活するのか、もしくは新たにより洗練された教えとなってゾクチェンの九乗といった教えのあらゆる限界すら超えた十乗目の教えが説かれてもよいのではないか。 現代のガラップ・ドルジェならば、必ずやその教えを広め、苦難にあえぐ衆生を救済する、つまり、利他を行うことだろう。 ゾクチェンの段階においても利他を行えるのは、虹の身体を悟った成就者に限られる。そうではない者の、その利他は、またその慈悲も供養も宗教行為ですらカルマを生み出す、つまり、苦しみの輪廻を生み出すものにすぎないのだ。 究極の世俗諦と完全なる勝義諦の統合が望まれる。ゾクチェンのエッセンスを中心思想においた五術六大課には、その限界を打ち破る可能性があるのではないか いずれにせよ直接伝授以外にその最短の道はないだろう。(しかし、それはカルマの負債の大きな痛みを伴うが) 2008/12/07 0:06:51
人と人は、ギリギリの状態で出合っている。何も無いような状態で出会う人など独りもいないのだ。その出会いは生死を分かつものになることもある。 その出会いそのものが、敵となるか、それとも味方となるかということでその未来は決定されて行く。 人生において最善を尽くしていれば、すべての存在は微笑んで来る。しかし、無明に覆われてカルマと煩悩に翻弄されている何も悟っていなものは、すべては、苦しみへとカルマの負債となって自身に跳ね返って来るだろう。 努力する病いを脱ぎ捨てよ。努力は、病いの根であり、カルマの薫習であるからだ。そんなものは、棄て去らなければないない。それこそが、ブッタの説いた放棄の道の真実であり、それを清浄な顕現へと開放することが密教の説いた変容の道の真実である。ゾクチェンの説く自己解脱とは、自然解脱とは、努力という無意味な行為を無思考という行為によって乗り越えて、あるがままに無努力で因果を超える方法を説くものなのだ。 道を見誤ってはならない。出会いの真実のありようを直接みることだ。気まぐれな、自己中心的な出会いなどまったくないことに気がつくことだ。 一期一会とは、そのような出会いであり、三顧の礼に匹敵するものであるということができる。 2008/12/06 0:27:16
大多数の人は、みな対象から自分を投影しようとするので、本来の自分のありようを見失う場合がたたある。これは特に占術家などの人にアドバイスを行う立場である人がこのような見解にあると困ったことになる。 なぜなら、占術家は、現在おかれている鑑定客の見解に立った視点によって運命や運勢、あるいは、鑑定客にいま起きている現象を正確に判断しなければならないからだ。 人は他人を写し出すとともに自分もその内に投影してしまうので、両者は切り離すことはできないし、分解することもできない。両者は、同時に物事の進行を観て行くのである。 その判断の中に占術的世界観を投影してみてしまう場合、それはその文化や伝統を通じてその本質を伝えようとしているのであって、その中に自分の思想的見解を入れてしまったら鑑定客に正しい情報を伝えるどころか誤った解釈を与えてしまうだろう。 あらゆる占術から引き出される情報の本質を掴むことだ。そうでなければ、伝統や文化の世襲のみに時間を費やし、まったく実占に役立たない占いを身に着けていることになる。 人はリアリティーの本質をほとんど見ないまま生きているようだ。人は自分のカルマしか観ていない。実際に眼前に写し出されたものは、カルマ的顕現のあらわれにすぎないのである。 仏教においても中観派と唯識派が論争したように、物事をどんなに微細に分解して本質を究明しても、反対により単純な法則によって本質に迫る方法も結局は、我々の無知の方便にすぎないのだ。これはどんなに高度な占いで非常に的中率が高くても、また単純で矛盾だらけの的中率の低い占いであっても同様なのである。リアリティーの本質に辿り着けなければ、どんなものであっても無意味だ。 大切なことは、概念によって生み出されない如実である「あるがまま」を見出すごとだ。人生は非常に短い。論争(戯論)に明け暮れている間に人生のピリオドがやって来る。論点となる本質を掴むことだ。何を見出すかが問題なのだ。そうすればあるがままの自分に回帰することができる。 リアリティーの本質を見誤ってはならない、主体も客体もない、あるがままを見出すことだ。 2008/11/26 22:40:21
解脱には、解脱のさらなる解脱があることを一般の方々は理解していないようだ。 すべてが狂っているようなひとであっても極めて高度な悟りに至っていることを認めざるを得ない出来事に出会った。 私の言っていることを完全に理解できている人にであったのだ。 しかし、そのひとは、一般の人々からみたらおかしいとか狂人に見えるかもしれない。 もしかしたら、自分もその境地にあるのかもしれないと感じたのだった。 彼女は私が薦めた『ゾクチェンの教え(ナムカイ・ノルブ著、永沢哲訳、地湧社)』を精読していたのであった。 私が尋ねる、その本はどうでした? 彼女曰く、心が非常に穏やかになりました。 どうみても私からは、彼女は精神的にも身体的にも異常であるにも拘わらず、こころは、穏やかさを取り戻している。 おかしいとおもった。私は、彼女の精神と今顕現しているものがまったくちがったものに見えている。 こころは悟っているのに顕現は不浄のままだ。つまり、彼女の想念が生み出したものであり、現実生活へのあまりの不満が本人の精神状態や容姿を異常なものへと変容させているのだと理解した。 カルマの顕現とは、非常に恐ろしいと感じたが、どんなものが顕現しようも等しく空であることの如実なる真実を悟った。 彼女は最後にこう言った、問題を解決するために阿藤先生は、ゾクチェンを見出したのですねと、つまり、彼女は、ゾクチェンのテクチューとトゥーゲルの修行をすることで、私が到達した境地にたどり着けると直感したのだ。彼女は完全におかしな状態にあるにも拘わらず修行したくなりましたとつぶやいたのだった。阿藤先生、まるくなりましたねと。。。 道を見出したのである。彼女は自分の進むべき道を悟ったのだ。 そして私は、更なる虹の身体の大いなる転移に向けて遷化する決意をしたのである。 2008/11/19 20:44:20
ひとはみな煩悩と格闘しているようだ。 あるひとは自分自身にその全エネルギーをぶつけてしまうので、自分の身・口・意のみならず五大元素の空・風・火・水・地の各元素の調和すら破壊しようとする。 自分が投影する他の人々まで自分と同じような影響下に陥れようとする。しかし、当人がそう想っていなくても回りに与える影響は絶大だ。 (煩悩といものは、物資ではないので、煩悩が人の心身に与えるダメージは計り知れないものがある。特に難病を発症している人が発する煩悩は深刻な汚染を生み出すのだ。ときには、人のカルマに、つまり、運命にすら影響を与えてしまう場合がある。) 病人の心理のようにすべてが他人のせいだと想っている。一片たりとも自分に責任がないような振る舞いをする。これは、我執の極みである。しかし、この状況は、本人の思考が作り上げたものなので、だれもその状況を救うことはできない。 自分自身で自分を救う以外にその術はないのだ。宗教家も口では慈悲を説きながらそんなものは一度も湧いたことが無い現実に出会うだろう。救えないという現実を。 道を説くことができても救えるかどうかということは別問題だ。救われない道をいくら説いたところでくたびれもうけだ。 その道を信じてしたがったものは、みな蜃気楼や陽炎を追うようなものである。 自分が狂っていることに気がつくべきだ。煩悩の業火に焼かれみさかいなく生きていることを。 煩悩が尽きたとき、それは知恵の光に変わり、身体から光が発現するであろう。人間の本質は光であるので、煩悩が発現しないものは、虹の光が発現するようになる。 伝統や理論、つまり、概念による構築物などによって悟りに至るはずも無く、象徴手段によって悟るにしても誤っている象徴手段によって悟ることは絶対にありえない。 宗教というものが説く限界概念を打ち破るべきだ、人は本質が光っているのだから、だれであろうが、なにものであろうが、その存在を特定できるものなどないのだ。 なにものも棄てず、なにものも保持せず、すべては成就しているのだから努力の病いを棄て去り、あるがままの存在にとどまるべきだ。煩悩は毒を生み出す、人生や人を害するものとなる。 煩悩は、意識が三昧の境地にあるとき、すべての効力を失い無毒化する。煩悩は自然に消滅する。どんなにすざましい汚染に遭って心身がズタズタにされたとしても三昧にとどまり続ければ、どんな業火であれ、錯誤であれ、すべてはあるがままに融解して無に帰していく。 この煩悩の真実のありよう知ることが無ければ、そしてゾクチェンが説く『菩提心』の教えに依らなければ、劫の果てまで進んだとしても真実の悟りに、つまり、ブッタの境地を体験することはできないであろう。 世の中に人の煩悩を受信できるものが存在することを、煩悩の被害に遭いながらも煩悩の痛みが解かるものが存在することを忘れないで欲しい。 すべての人々に告ぐ、無明に塗れた煩悩に覆いつくされてはならない。煩悩を乗り越えて生きて行って欲しい。 2008/11/15 21:13:01
山道さん 掛川先生 ご苦労様でした。やっとひとやま越えましたね。しかし、これからがたいへんですよ。気を引き締めて善事にあたってください。 ところで阿藤大昇は蚊帳の外にありますね?という質問が来るかもしれません。しかし、それでよいのです。なぜなら私、阿藤大昇は、どの門派にも属していないからです。 それなのになぜ五術の心髄に到達したのかと問えば、学んだ原典や門派(明澄透派)がより純粋に正しかったというよりほかはないでしょう。 ゾクチェンにおいても私は、ニンマ派でもボン教徒でもありませんし、ゾクチェンのグルにも師事しておりません。そのような立場にある私がゾクチェンの究極の悟りである虹の身体の悟りに到達できたことに大きな意味があるのです。 私は、五術においてもリメー派(超宗派)であると自らのポジションを表明して置かなければならないでしょう。(しかし、それすらも概念の構築物に過ぎないのですが) リメー派とは、ナムカイ・ノルブ氏の『ゾクチェンの教え(地湧社)』にこうかかれています。 19世紀、チベットには、各宗派の間に生まれてきた、イデオロギーの壁を取り除こうとするラマたちが出現し、思想の開放と交流を推し進めようとしたのである。彼らはもともとさまざまな宗派の出身だったが、すべて偉大なるゾクチェンの行者だった。本人たちは、自分たちはこういう存在だと定義する気などさらさらなったが、やがて人々は彼らを<超宗派>と呼ぶようになった。ゾクチェンの修行者にとっては<超宗派>という表現すら、他との中でその位置を示す言葉にすぎない。それは、言葉の枠の中に押し込めて安心しようとする心のはたらきから生まれてくるもので、無意味なものだ。 だからといって私は、ナムカイ・ノルブ氏や中沢新一氏ならびにゾクチェンを現代に伝える活動を行っている方々を軽視することなく、尊重し、尊敬いたしております。 問題は、当人が今抱えている問題をすぐに解決できる教えを現代の人々はもとめているのです。たまたま私はゾクチェンの教えによって救われただけのことに過ぎないです。 現代の人々には、すべての現象が堕落と退落のように見えるかもしれませんが、最善を尽くして戦っている名雄が居ることを、限界に挑戦して運命に挑んでいる英雄たちを、私は、賞賛せずにはいられません。 私が感動した『セム(中沢新一氏の翻訳による)』の『菩提心 金翅鳥タントラ』の最後にこうあります。 広大に拡大していくものの要点を、拡大の門を閉ざして、広大、安寧、快楽として決定する金翅鳥(ガルーダ)タントラの、大いなる広大の極みにたどり着いた、インドの学者シュリー・シンハと、チベットの翻訳者ヴァイローチャナが翻訳した。 この文章をイスカンダルさんと『虹と水晶』をあげた見習い占い師のレナちゃんに捧げます。 阿藤大昇ことシュリー・シンハより 心の深部が完全に氷結してしまっていた雪の女王さまへ 2008/11/09 18:46:35
先日行った座談会での内容を少し紹介しましょう。 徐大昇の百章歌とは、以下の通りです。 『百章歌』 天地人元分五音 陰陽妙訣果其真 天・地・人元は、五音に分け、陰陽の妙訣は、果たしてそれ真、 六格陰陽成造化 天機此事莫軽傳 六格の陰陽は、造化を成し、天機此の事軽く伝える莫れ、 三元休失中和気 定看栄枯転意深 三元は、中和の気を失うなかれ、定め看る栄枯、意転じて深し、 立法先定生和死 次分貴賎吉和凶 立法が先に生と死を定め、次に貴賎、吉と凶を分ける、 妙法只須三両句 無師伝授閂労心 妙法は、ただ三両の句、無師伝授は、閂の労心、 談教説透天機事 算尽虚言須是空 教を談じ説透れば、天機の事、算を尽くしても虚言は、須らく是れ空、 一官二印三財位 四殺五食六傷官 一に官、二に印、三に財位、四に殺、五に食、六に傷官、 年看祖宗興廃事 月推父母定留存 年は祖宗の興廃のことを看る、月は父母の留存の定めを推しはかり、 ここからすべての子平が出発し、もちろん明澄透派の子平の源泉とするものなのです。この埋蔵経典であった原典の出現は、新しい子平のそれもより源流である子平がこの世の中に展開する証となることでしょう。 2008/11/04 0:53:47
先日開催いたしました「座談会」が無事終了いたしましたが、参加され方々並びに参加できなかった方々に感謝いたします。ご足労いただいた山道さん、茶通並びにファイブアーツのスタッフの皆さま言説では語れない感謝をさせていただきます。本当にありがとうございました。 今から十数年まえに故張明澄先生にお願いしてご約束していた要件が有りましたが、その前に明澄先生が他界されてしまったので、その願いは、絶対に叶わぬものであると勝手に私自身が思い込んでいたのですが! それもそのはずでありますが、明澄先生にご無理をいってなかば無理強い同然にお願いしていた明澄透派の秘伝の写本をください(先生からしてみれば、私をなんちゅうやつだと想ったことでしょう)とお約束していたのですが、このたび偶然にも故明澄先生の五回忌のご冥日に私の手元に与えられたことに絶大なる無上の感謝を冥界にいらっしゃる明澄先生にご敬服させていただきます。 なぜならば、 明澄先生は死してもなお私ごときものに、時間と空間を超えて、こんなにも貴重で素晴らしい写本を与えてくださったことに常識を破壊して無上の感銘感謝をいたします。絶対に有り得ない奇跡といってもいいと想います。これは聖衣星矢のストーリーに出てくるムーの師匠であった教皇のアリエスのシオンが冥界の王のハーディスの誘いにのってこの世に蘇えりこのような私に、その教えを説いてくださったようなものです。 ゾクチェンでは、これをタクナンとか埋蔵経典といって教えの伝承の意味を強調するために時間と空間を超えて真実の教えが物質次元の写本として出現する奇跡なのです。 私並びに御子神さんがこの役わりをはたすべきお役として指名されたようです。先代の王文澤氏に敬意と尊敬を込めて、もちろん故明澄先生のご冥福をお祈りし、成しえなかった大業のお手伝いをさせていただきたいと想っております。 御子神さんに、私は奇門遁甲の原典研究において旋転式と飛白式の二つの遁甲があると発表していたのですが、その写本はまさに私の研究成果を証明するかのように同じ結論に達していたのです。御子神さん曰く、「阿藤先生の説と王文澤の説が同じでした。本当に感動しました。そして正しかった」ということを彼が言ってくれたことに最上級の尊敬を感じました。師として間違っていなかったのだと! 『皇龍ソフト』の奇門遁甲の見解は、正統であり、この上なく正しく、間違っていなかったということがその写本は、語ってくれたのです。明澄先生に感謝するしかありません。 山道さん、掛川先生、諸葛きんは、無努力の教えで、がんばります。どうぞよろしくお願いいたします。 敬具 吉日 火焼赤壁(レッドクリフ)にて、諸葛きんより 阿藤 大昇 2008/10/31 14:59:06
ゾクチェンの九乗の教えを理解するには、ゾクチェンのラマであるナムカイ・ノルブ氏の『虹と水晶(法蔵館)』を精読して読み込むことがポイントですが、ブログの読者にそれを求めるのは、酷くなので、その取っ掛かりの部分を紹介しましょう。 まず、顕教・密教・ゾクチェンの教えの違いを論じましょう。 顕教 小乗、大乗ともに、シュニャーター、すなわち空性の経験を目標として修行する。タントラにおいて、この空性は基本前提であり、出発点である。段階にしたがう教えにおいては、ここから出発し、上に向かって修行をしていく必要がある。これに対して、ゾクチェンはただちに最高の教えから始める。 密教 密教の各レベルは、すべて、金剛乗の修行であり、あらゆる現象は空であるという、空性の原理を前提としている。すべての密教修行は、この原理にもとつき、観想法は、個人のエネルギーを、宇宙エネルギーと再統合することを目的としている。 外タントラ、ないし低いタントラ クリヤー・タントラ(行為のタントラ) 浄化の道のレベルにあたる。修行者は、守護尊が自分の外部にあり、また自分よりすぐれた存在であると考え、観想する。外的な行為に取り組み、悟りを得た仏から知恵を授かるように、またより高いレベルのタントラに取り組んでいく準備のために、みずからを浄化する。 ウパーヤ・タントラ(中間のヨーガ) 悟りに達した存在である「守護尊」を、自分と対等な関係にはあるが、自分の外部にあるものとして観想する。修行者は外的な行為のほかに、内的なヨーガにも若干取り組む。 ヨーガ・タントラ これは、変容の道の最初の段階にあたる。修行者は、自分がその「守護尊」そのものだと観想し、微細なエネルギーの身体を使う内的ヨーガに取り組み始める。内的ヨーガは、上述の変容の道のすべてのレベルにおいて、一貫して使われる。 内タントラ、ないし高いタントラ 無上ヨーガ・タントラは、ニンマ派においては三つのレベルに分けられている。 アティヨーガ(原初のヨーガ) アティヨーガとアヌヨーガは、ニンマ派だけに見いだされる教えである。アティヨーガはアヌヨーガの最終段階であり、ニンマ派において、段階を踏んで悟りに至る道の究極である。アティヨーガはゾクチェンとも呼ばれ、事実このヨーガによって到達する境地は、ゾクチェンとまさしく同じである。ただし、その境地に、変容の道をつうじて到達するのである。原初の境地は、九つの段階からなる階梯を踏みながらすすんでいく道の最終段階ということになる。これに対して、ゾクチェンそのものは、段階を踏まない道であり、直接、心の本性を開示する導き入れが、ただちにあたえられる。 アヌヨーガ(完璧なるヨーガ) ニンマ派におけるアヌヨーガはアティヨーガへとみちびくものであり、ニンマ派だけに見いだされる観想法を使う。観想は、少しずつディテールを追いながら作り上げられていくのではなく、一瞬にして姿をあらわす。修行者はみずからがその守護尊であると観想する。また、ディテールよりも、感覚のほうが重要だと考えられている。 マハーヨーガ(大いなるヨーガ) ニンマ派においては、アティヨーガが変容の道の究極にある。これに対して、ほかの三つの宗派においては、順を追いディテールにそって観想していくマハーヨーガの修行が、マハームドラ(大いなる象徴、ないし印契)の境地をもたらす。この境地もまた、ゾクチェンやアティヨーガの境地と別ものではない。ただし、その同じ境地に到達するための方法は、まったく異なる。 ゾクチェン ゾクチェンは、顕教でも密教でもないし、あるヒエラルキーの中で、高いレベルにあると主張しているわけでもない。またゾクチェンは、段階的に悟りに至る道でもない。だが、ゾクチェンは自己解脱の道であり、変容の道ではないから、観想法は、修行の中心ではない。だが、ゾクチェンは限界の彼岸にあるから、他のどのレベルの修行法でも、補助的な修行法として用いることができる。ゾクチェンでもっとも重要な修行は、不二の三昧に直接入り、その状態にとどまり続け、完全な悟りに至るまで、それを深めていくことである。 以上、『虹と水晶』の本文より引用いたしました。 * * * * * * 密教は、身・口・意の口、つまり、エネルギーの側面を強調した教えであり、守護尊を本尊として対象化してしまうので、自分のエネルギーの投影を以下の段階によって統合していく。 クリヤー・タントラ 本尊 上下 修行者 上下の関係 ウパーヤ・タントラ 本尊 対等 修行者 対等の関係 ヨーガ・タントラ 本尊 同一 修行者 同一の関係 アヌヨーガ 本尊 変容 修行者 一瞬にして本尊に変容する。 マハーヨーガ 本尊 印契 修行者 大いなる象徴 アティヨーガ 三昧 不二 修行者の意識(リクパ) つまり、本尊である象徴と一体となるマハームドラの悟りに至るまでは、物質的なエネルギーを統合することはできない。つまり、顕現をも意識をも浄化することはできないのである。 外タントラないし低いタントラのみをグルの指導もなしに自分勝手に行うと心象形成に異常が生じてくる。なぜなら、このタントラは、まだ到達点ではないし、加行ですら終えていないものが、この外タントラを行えば、どのようになるか、普通に考えてもその行為によって、エネルギーの修行のみで、人間の身口意のバランスを取ろうとするから、本人がおかしくなるのは当然だ。それを平然と責任を取る気もないものがロジックだけで、それを行おうとする。なんたることか、それは、人間といえるものなのか?自尊心が生み出した非情に傲慢な妄念にすぎない。それは、心の連続体に本当の慈悲と知恵が発現していないからだ。つまり、何も悟っていないという現実を正しく認識するべきだ。そのような偽りの慈悲では誰も真実の悟りに至れないはずだ。 (どのような密教の導師であれ、その人が放つ強力な祈念(想念)が発生するエネルギーは、人間のルン(神路)や意識(識功)を掻き乱し、霊子界のような無数の霊子線によって人を巻きつけ縛ろうとする一種の生霊による憑依現象だといえるだろう。これは素粒子レベルで存在するエネルギーなので、どんなに微細なものであっても人を癒すものではなく、一時的に人を癒したとしても結果的には人に善悪を与えるエネルギーなのである。つまり輪廻を生み出すものなのだ。)(聖衣に、同じ幻術(輪廻を生み出す霊死界?)はもう通用しませんよ!竜魔さん!これアニメの話です!) どこに到達点を置くかが重要であり、究極の悟りを得ることを人生の目標にすべきだ。人生はブッタが説いたように無常であり、明日の命など誰も保障はできないのである。 2008/10/20 12:27:11
我々は、現実生活の中で思いもよらぬ幻影や幻術に振り廻されてしまう場合がありますが、それは、対外的には、政治的なものや悪質な商法や宗教団体に多く見られます。そして内面的には、自分自身で産み出した壁や鳥かごによって非常に自分を狭く縛ってしまいます。 それは、今までの教育や宗教、さらには社会環境によって左右されますが、特に常識と宗教、つまり、文化的な価値観や伝統的風習は、時として、人間を大きく制約するものとなってしまいます。 そのような制約や限界は、特に自ら思考して造りだしているようですが、常識的な正しい判断を行うと本来の自分自身の純粋さを否定してしまいます。反対に自分の自性に正直に生きた場合は、社会や周りの人々に多大な影響を与えてしまうでしょう。 宗教的洗脳は、多くの社会問題を発生させてしまいますが、その幻影や幻術を断ち切るには、いったいどうしたらいいのでしょう。 最近、ヒーローアニメの「風魔の小次郎」がDVD化されて各地で放映されるようですが、このストーリーの最終章に風魔一族と新生風魔一族との戦いが描かれています。そしてその新生風魔一族のリーダーの夢魔という人物は、人の精神を支配して敵をいとも簡単に自滅(自殺)させてしまうという恐ろしい幻術をつかいます。この幻術によって風魔一族の屈指の風魔夢幻陣という幻術をつかう霧風は、夢魔の幻術に意識をマインドコンロールされたがために、いとも簡単に彼は幻影合戦の中で、霧風は、彼の術中にはまり、自らの心臓を自らの剣で串刺しにして果てしまいました。。 このように恐ろしい幻術と戦うために風魔の小次郎が取った秘策とは、彼の相棒である独眼竜竜魔にどんなに強力な幻術も拒否して受け付けない、そしてどんな影響も受けない、どんな幻影にも屈しない幻術をかけてもらったのです。 果し合いのとき、強敵の夢魔を操っていた黒幕の死紋は、風魔最強の戦士の独眼竜竜魔すらも精神支配してしまい風魔の五人兄弟の中の劉鵬、小龍、霧風は、その紫紋に滅ぼされたが絶体絶命の窮地に陥った小次郎は、危機一髪のところ紫紋が自分の幻術にかかったと見せかけた一瞬の隙(これをリクパともいう。なぜなら、まったく思考していない瞬間が誰にもあるが当人が気がついていないだけ)を突いたことで強敵の紫紋を討ち果たすことができたのです。そして、めでたく風魔一族の平安が保たれたのです。 このどんな幻術にも影響を受けない幻術とは、いったいどういうものでしょう? 考えてみてください。幻術とはすべて人間が生み出した幻影であり、その根本は二元的な見方から出発しております。私の考えでは、竜魔は、二元的ではない幻術をかけたのではないだろうか?と感じました。 なぜなら、人間は対象と触れたとき、意識が生まれますが、そのときすべての顕現、つまり現象を構築してしまうようです。それは、夢を見ているときと非常に似ています。現実ではそれ相応の物事や人物が現われてくるのです。 人間が意識を作る段階をゾクチェンでは、マリクパ(無明)といいますが、意識をつくる瞬間に二元的な見方に陥らなければ、その顕現は自然解脱します。これをリクパ(明知)と呼びます。リクパは理性的な心を遥かに超えたもので、これに対して心は、時間と空間や地点を超えることができません。つまり、心はどんなに深遠なものであっても限界の中にあるのです。そしてそのリクパというものは、完全に心が造りだす概念の彼岸にあります。これをゾクチェンでは心の本性(土台)と呼びます。 つまり、独眼竜竜魔は、小次郎にこのリクパという幻術というよりも悟りを与えたのではないのかというのが私の直感です。なぜなら、ゾクチェンには、そのリクパを見出す修行法として、テクチューとトゥーゲルの修行があります。 テクチューは、三昧の境地、つまり、リクパにとどまり続ける修行法であります。そしてその三昧のなかに自分の心、つまり、意識を置くことで、自発的に思考や意識を解き放っていくので、すべての意識的概念が造りだした幻影を徹底的に破壊していきます。そのような修行を続けていくと身体の粒子が微細になり、まさに微塵と呼ばれる境地に達します。その身体を消滅したり、一時的に消すことができるようになります。これは、先ほどの霧風がつかう風魔夢幻陣に似ているといえるでしょう。これを幻身と呼びますが、幻身は粒子が微塵となったとしても物質次元で顕現しているので、意識に情報を転写されてしまう恐れがあります。つまり、霧風が死紋に破れた原因は、この素粒子のクラスタの差ではないかと私は思ったのです。死紋の意識の方が霧風の意識のクラスタより細かかったゆえに霧風は、死紋の意識に支配されてしまったのだろう。可哀そうに。(これマーチンに所属するあなたのことですよ!聞いてますか?ロンブーの解かるかな!解かるかな?) ごの幻身は、五大元素と深いかかわりがあるのです。(詳しくは山道さんと掛川先生のブログを参照してください) 空 識功 風 神功 火 気功 水 精功 地 力功 ゾクチェンでは、この五大元素と自らのリクパを統合したときにその元素を支配することができるとしています。例えば地の元素に統合した場合、物体を動かしたり移動させることができるようです。また水の元素と統合した場合は、水のエネルギーを支配できるので、水の上を歩いたりすることができるようです。空の元素と統合した場合は、空を飛ぶことができるようになると言われますが、ゾクチェンの最終目標は、五大元素によって縛られている人間を解放してもとの原質である虹に変容することです。それを虹の身体と呼びます。つまり、存在の消滅を説くもので、仏教的に言えば、解脱のさらなる解脱が虹の身体と呼ばれるものです。そしてその虹の身体は光へと還元されますが、活動的であるとも言われております。すなわち、虹の身体は、肉体的な死というものを経験する前に空間に帰して行くと考えられいるのです。(これって山道さんのお名前の帰一と同じ意味ですよね。山道さんが私を尋ねて初めて逢いに来てくれたときにすぐわかりましたよ(余談)) この五大元素からいくと霧風の夢幻陣は、水を霧に変えてそのなかに肉体を溶け込ませて消えるので、水の元素をつかった幻術であるといえます。それに対して夢魔は、おそらく水の次元より高い空の元素の識功レベルの幻術をつかったのではないでしょうか。夢魔は、夢魔と言うくらいですから夢を支配する能力があったみたいですね。夢はゾクチェンでは、バルドの教えに属するものであります。バルドの教えは、夢の中に現われるあらゆる顕現を自然解脱する方法をゾクチェンでは説きます。その方法ってどうやるのかって?簡単だよ夢の中でトゥーゲルの修行をすればよいのさ!えーそんな簡単に秘伝を喋っちゃっていいの?構わないさ!君たちが自分で自分を救ってくれ!えーできない!それだったら私のところにくれば教えてあげるさ!)。 霧風は、つまり、夢魔の黒幕である死紋が造りだした夢の中の幻影に引き込まれて、ここちよい夢の陶酔の中で抹殺されてしまったのではないかというのが私の分析です。(まさに夢の中で騙されてしまうというこれはゾクチェンのドラセルションと呼ばれる「石を金に」というタントラの話にそっくりだ)(一人で感動) だからあの霧風が簡単にやらちゃったわけですよね~。(ちなみにマーチンはセラミックで土の元素の肉体を操り、信仰の対象となる念持仏によって精神を支配していますよ。おー怖(絶叫) (この前、私のところにマーチンからの刺客がやってきましたが、ミイラ取りがミイラになって見事その幻術を討ち果たしましたよ。その刺客は、私がマーチンの幻術を解いてあげたのですが、自らの煩悩を肥大化して自滅しましたよ。これはマーチンが煩悩というものを何も解決していない証明であり、むしろ多くの信者たちは、その煩悩を煽り立てられて貪りの地獄へと引き込まれています。これって絶対犯罪だよね。ひぇーあまりにひどすぎる(残酷無比)、今その方は、私という精神的支えを拒絶し、煩悩のままに精神的メダボになってあの恐ろしいマーチンに出戻りになった見たいです。マーチンの洗脳の現状を報告させていただきました) この事件に関しては、山道さんと掛川先生のご援軍とご助力があったことをここに記して置かなければなりません。(感謝感謝) それに対してトゥーゲルは、光の顕現によって幻身を虹の身体に変容する術であるといえるでしょう。つまり、物質次元ではなく光の次元で顕現してしまうので、あらゆる意識の影響を受けることがなくなります。なぜなら、光は記憶を維持する土台がないのです。つまり、空なのです。そして尚且つそこから音、光、光線とエネルギーが放射するので、身体は透明な輝きを持った虹の身体として顕現するのです。おそらく独眼竜竜魔は、小次郎にこのトゥーゲルの術を施したのであると私は確信したのです。 死紋率いる「夢魔院(マーチン)」は、つまり、霧風や竜魔のように優れた最強の戦士ですらも精神支配して身も心も財産もそして使い物にならなくなった信者の命までも紫紋がやったように非常に残酷に抹殺します。すべてはその教祖に個人はおろか家庭や会社、国家も、地球環境までも徹底的に支配されてしまっています。これは非常に恐ろしい幻術だといえるでしょう。放置しておけば、被害者は続出するのは、火を見るより明らかです。 私は、ゾクチェンのトゥーゲルの修行を行ったので、小次郎のように夢魔(マーチン)の幻術の幻影に打ち勝つことができたのです。(これアニメじゃなくて、ほんとの話よ)(笑) 私の戦いは、その恐ろしい夢魔の黒幕である死紋の幻術を解く段階までに至りましたが、必ずや死紋率いる夢魔院(マーチン)の魔教軍団(六師外道は、成仏できない教えを説く教団のこと)を破壊し、打ち勝つ確信があります。なぜなら、私は虹の身体を得て、ブッタに等しい境地を得たのですから。(阿藤先生、頭がおかしくなったんじゃないですか?と想わないでくださいね) さっきビールを飲んだら続編ができました。ご紹介しますよ。私は風魔三兄弟の次男で、名前に大がつくので、本編では、風魔大次郎と命名しました。(笑い) なぜゾクチェンのテクチューとトゥーゲルの修行を行うと、そんな奇跡が起きるのかと言うと、つまり、五大元素を超えた「心の本性」という、リクパ(明知)に、三昧の境地に、あるがままで完璧な境地に、悠々ととどまるからです。それは人間の源泉の潜在能力として誰もが持っている普遍的な特性であり、当人が気がつかなくとも或いは気がついていたとしても自ずと遍在するものなのです。それはまさにすべての人々に遍照する太陽と同じような存在が個々の魂の根源に秘めてる途轍もないエネルギーなのです。その修行の深化によって、幻身を達成し、虹の身体を獲得し、最終的には、完全にその肉体を諸元素のエレメントに融解していくことが可能となります。もちろんマーチンが造りだす幻身は、所詮、外タントラのレベルを一歩も出てない悟り(いい加減に悟ってみたら!私の意見!これを所知障といって知識や宗派の見解によって悟れない深刻な煩悩のひとつに数えらえる)なので、テクチューの修行を行っただけで、マーチンの幻術を解くことができると想います。これは私の修行体験から出てきた言葉ですが、まずゾクチェンの加行から始めましょ。しかし、百人斬りに参加した人はすでに灌頂を終えていますよ。 テクチューの修行から始めましょうか?ご希望の方は「座談会」に参加してください。おっとそれはもう締め切ってしまいましたので、当日の二次会、三次会でお持ちしておりますよ。(どうぞいらっしゃてね(笑顔)) ゾクチェンのテクチューの段階では、鏡に自分の姿が映らなくなるというのは、実は方便であって、鏡に映し出された、自分すらカルマと煩悩が生み出した幻影に過ぎないと自覚するだけで、肉眼の眼にはやはり、自分の顔は、写し出されています。しかし、この段階においてはその幻影を幻影であると認識しているので、その映像に敢えて執着を起こすことは、以前より少なくなるはずです。 風魔の独眼竜の竜魔が用いた死鏡剣と呼ばれる幻術は、鏡に映った敵を鏡の中に封じ込めた後、その鏡を叩き割って、敵をやっつける幻術ですが、これはマーチンがやってる幻術に似てるかもしれません。つまり、人間を限界概念に閉じ込めてその人の人生すらもその鏡と同じように破壊しようとします。 しかし、ゾクチェンのリクパツェルという境地は、鏡に映った自分にすらまったく執着しないので、その竜魔の死鏡剣の幻術にかかる要因がまったくありません。つまり、自然解脱してしまうので、竜魔の幻術は、その人にとっては完全に意味すら失います。 トゥーゲルの修行の成果が出てくると、本当に鏡に自分が映らなくなり、遷化するでしょう。しかし、人間が死んで亡くなったとしてもその本体は、結果的には肉体的な死も虹の身体の死も完全に我々の肉眼(鏡)に映らなくなります。同じく死んだという事実があったとしてもその差は、我々の肉眼において同じように見えるので、肉眼、つまり、物体に強く執着している人にとっては、このゾクチェンの深遠な教えが自ずと隠された神秘となってしまうのです。 この問題は、顕現(現象)が独立自存の存在であると相手を対象化して見てしまったためにおきた現象なのです。我々はものを見るとき、主体と客体に分けていますが、顕現は常に自分の心と表裏一体となって顕現しています。つまり、独立自存の存在というものは、この世にまったく無く、だからこそ我々は目の前で苦しんでいる有情を自己投影することができるので、それを自己顕現であると理解して悩める人々を救うこと、つまり、利他を行うことができるのです。 ボン教のテクチューの教えでは、幻身の教えのすべてを以下のように説いています。 第一のものは、ゾクチェンの教えの中に誤った教えが紛れ込んでいるもの、 第二のものは、ゾクチェンの教えを誤って解釈したもの、 第三のものは、自動的にそれより先に進めなくなる誤った教え、である。 以上の文章は、以下の書籍から引用させていただきました。 さーあなたは、どの見解に属していますか?考えてみてください。真剣に。小次郎のように! ゾクチェンのトゥーゲルの修行は、『知恵のエッセンス(ボン教のゾクチェンの教え)、春秋社』に載っていますよ。。。修行する価値があるかも~~~!上記の部分は、この書のテクチューの修行の冒頭より引用させていただきました。 次回は、聖衣星矢編を説きますので、楽しみに待っていてくださいね。ストーリーでは、ドラゴンの聖衣の紫竜がジャミールのムーに逢いに行ったとき、ムーは、五重塔を思念で動かすという話がありますが、これはゾクチェンのグルであるシュリーシンハの伝記に出てくる話なのですよ。シュリーシンハは神通の力で九重塔(ゾクチェンの九乗の教えを象徴している)を建てたとされています。(このひともしかしたら私の過去世かも?) 2008/10/18 20:32:00
雑事に追われると義務感や不安が生じ、事ごとに、責任を取らなければ、ならないことになる。公と私は、区別しなければならない。普段の生活サイクルにおいて、雑務を増やさない方がよい。なぜなら、本業がおろそかになるからだ。 巻き込まないこと私物化しないことだ。所有の概念を棄て去れ、私と言えるようなものは、何も無いのだ。ただカルマと煩悩が幻影となって立ち現れているに過ぎないのだ。 努力してはならない。常に身・口・意をリラックスして三昧の状態にあるがままにとどまりなさい。たいていの人は、あるがままの意味を取り違えて理解している。習慣的な概念的な理解は、同じ現象を直接観察で心を観ているとはいえない。幻術を追ってはならない。 規律を保ちながらなにものにも執着せず生きていくことだ。苦しいと想ったら、それは、煩悩による業火が産み出した幻影(妄念)なので、観察しながら自然解脱に導くべきだ。 恋愛もまた主体と客体へと二元的に見た関係によって立ち現れるので、どのような恋愛であろうと錯誤といえる。そこに意味を付け加えても無意味だ。執着してその存在を追うことは、幻影が幻影を追っているので、絶対に手に入れることはできない。掴んだとしても自然に手から砂がこぼれるようなものだ。陽炎を追うものは誰もいない。 意味ある行為も無意味な行為も等しく平等であり、何ものにも気にせず、無努力の道を邁進すればよい。ひどく業火に焼かれて苦しんでいるものが眼前に現れたとしてもトゥーゲルの修行である知恵のルンによって浄化し、自然解脱させればよい。人はなぜ昏睡状態のとき、顕現が現われないのは、そのルンが意識を浄化しているからだ。 我々が見ているのは、すべて、カルマと煩悩が産み出した構築物であり、そこに現われたものが本当にあると想っているのが、我々の見方であり、そんなものは、なにもなく、我々が見ているものは、幻影に等しい。 人はそれに執着して、支配し、いじろうとする。それは心の幻術に過ぎないのだ。物事をあるがままに放置するべきだ。真剣に考えず、ほうっておけばよい。思考したところで答えなど出るわけがない。会得することだ。自分しかないし、リクパしかないことを、誰にも依存することなく生きていくべきだ。 人は自分と同じものを対象化しようとしている。仲良くなろうとしている。しかし、それも存在そのものにおいて完成しており、ルールも受容も拒絶も為すがままに起きており、それを変えることも放棄する必要もない。守れるべき対象がいったいどこにあるのかと問えば、そんなものは、何も無いことに気がつく。 尊重と愛情を混同してはならない。尊重されたら素直に感謝すべきだ。愛情が生まれるには、関係(縁)や相性によるもので、つまり、愛は求めるものではなく、与える(発生・発光)ものなのだ。 愛を与えることなら誰でも簡単にできるが、それを求めても永久に得られない。なぜなら、そんなものは、もともとないからだ。愛を与えることは自由であり、愛を求めたら不自由になる。それが人間の真実だ。だから、愛というのもは求めるものではないのだ。その行為は妄念という煩悩をを舌の上で燃やしているようなものである。心は煩悩とともに変幻自在に変化する忍者のようだ。 また尊重されたからといってそれ以上いくら求めても愛情に変わることはない。人間的関係がそこにあれば、つまり、ふれあいがあれば、そこにすでに愛は存在し、その愛は完成してすべてが成就して美しい、それが真善美というものだ。なぜそれ以上のものを求める必要があろうか、それはすでに貪欲と呼ぶ煩悩に摩り替わっている。 占いの一番危険な側面は、そのような個人のプライベートな情報に携わってしまうので、尊重と愛情を相手に錯覚させてしまうところがある。つまり、本題である公私を混同したところに本質があり、公私という概念を打ち壊さなければ、伝えられない境地なのだ。そしてその人の心から出発したものでなければ、理解も悟ることもできないのだ。 占いの鑑定というものは、そういうものだから個人的に貧しい人や愛に飢えた人は、無いものを求めてしまう。或いは無いものをあると考えてしまう。これは非常に恐ろしいことだ。判断によっては、人の妄念を駆り立てて幻想を追いかけさせる危険がある。だから信頼のおける人に鑑定してもらった方が良い。へたをするとマインドコントロールに陥る危険性が多分にある。 結婚というのも限界概念の中にある。なぜなら、敵国同士の首脳が、私的に密会することは、犯罪に問われてしまうのだ。その二人が愛し合っているとしたら、それは公私混同している。それは美しい恋愛といえないだろう。残念ながら恋愛結婚は、公私混同したところから出発していることに気がつくべきだ。だから子平では、命式が汚れたときに結婚してしまうという現象が発生する。ゆえに命式において五行が偏向している場合も、もし純粋な意識が不浄な意識を育てる、つまり、いともたやすく煩悩を発生させて輪廻のカルマを積んでしまうのだ。その行為は、完全に清浄な自性をも汚し、輝き(光明)すら失うのだ。 だから、その恋愛にはマナーが必要であり、マナーを守らない人は、誰からも尊重されることはない。むしろ嫌われるだろう。尊重とは、見方を変えると愛情にかわってしまうので、恋愛しているというような錯覚に陥ることがあるだろう。しかし、それはそれとして感謝すれば、その時点でもうすでに完成し、それはもう虹の身体のように美しく輝いている。虹の身体を持つ人にとって煩悩はすでに無力だ。煩悩を支配し、完全にコントロールしきっている。どんな行為も思考も煩悩を生み出す根源がまったくないのだ。つまり、空っぽなのだ。いかなるものもその空っぽの空間を汚すことはできない。ゾクチェンでは、25の知恵が発現するといってもその根源は煩悩が変容したものにすぎない。 愛は与えるものであって、けっして愛を求めてはいけない。それを戒律としよう。 この教えは、筆者がトゥーゲルの修行中に起きたタクナンという顕現で、愛染明王(渡辺さん)からいただいた悟りです。愛染明王は愛そのものの存在なので、愛を求める必要すらないのです。だから渡辺さんは敢えて公私混同しないと結婚できないかも知れませんね。しかし、ほとんどの人は愛と妄念を取り違えて考えているようです。この出会いは、私の普遍的な愛と渡辺さんの究極の愛情が出合って統合に至った大いなる象徴であるマハームドラの境地が物質次元をコントロールしたために起きた現象といえるでしょう。お互いの煩悩は絶対に相容れないものであり、煩悩を基盤にして生まれた恋愛では、絶対に振り向いてもらえない恋愛になってしまいます。それは重苦しく辛い恋愛であるからです。しかし、知恵を基盤とした恋愛であれば、必ず振り向かすことが可能です。なぜなら愛と言うものには限界はなく、広大無辺で器としても足りないほどの無限の空間がすべて、慈悲に包まれているのだから。。。 そういう意味では、私が求めた恋愛は、あらゆる限界を乗り超えており、慈悲と愛情に満ち足りていると言えます。本当に幸せな心です。穏やかな心です。癒しのこころです。 こんな拙い私の根本グルとなってくれた渡辺さんが直接伝授くださった「大いなる愛」によって迷える子羊さん(Sさん)を救うことができましたよ。本当にたいへん身勝手な迷惑を渡辺さんにお掛けしましたが、そんな私ですら尊重し許してくださっていたのですね。今こそこの上ない最上級の敬愛をもって感謝いたします。もし結婚や出産が決まっているようでしたら蔭ながら本当に心の底から祝福いたします。 渡辺さんに幸あれ 乾杯 いま 君は人生の大きな大きな舞台に立ち 遥か長い人生の旅立ちの大きな船出に 幸運の虹の身体の輝きを 君に幸せあーれー♪ さあ みなさん 本当の恋愛である知恵の恋愛をしましょう。まず私が先頭ランナーになってダントツトップで走りますよ。ついてこれますか~(笑顔) 11月1日の座談会に徐大昇の『百章歌』を日本で初公開しますが、わたしの八字命造は、福徳格になっており、詩にこう有ります。 陰土逢蛇金與牛 名為福徳号貔豼 己土が巳酉と丑に逢えば、名を福徳と為し、貔豼と号す。 己土に巳酉丑の三合金局が逢うと、福徳格という格局となり、貔豼と号する。貔豼は、豹や虎を現すもので、古代中国では最強の猛獣と考えられており、三国誌では、蜀の竜と呼ばれた諸葛亮孔明と呉の虎と呼ばれて大将軍となった諸葛瑾の史実があり、まさに諸葛瑾を象徴しております。伝記には、日本でいったら大岡越前のような人だったようです。妻を早く亡くし、息子の三人も英雄となったが地位があるために皆殺しされた。そのような経緯があったので、愛人を後妻として娶らず、愛人の子供には仕官させなかったようです。彼だけは生き残り、天寿を全うし質素に葬られたようです。 昨日はたまたま東南の恵比寿に風遁を使って行ったら問題がことごとく解決していました。奇門遁甲は方位によって幻影を生み出しますが、純粋な意識であれば、すべての顕現を空間へと解き放ち、あらゆるものも浄化することができるみたいです。今日の西南の青竜返首は、すべてを生み出す王の方位なので、大ブレイクの兆しです。何が起きるのかたいへん楽しみです。 山道さんの心配も晴れましたよ。掛川先生の無学訣のアドバイスに感謝感激しております。 やっと三国誌の盟友三人の深い絆とともに最後の聖戦への臨戦状態につきましたね。一点の疑いも迷いも無く、過去を振り返らずに、走り続けましょう。 2008/10/08 9:53:00
煩悩とは、仏教において概念化された教えであり、我々の日常には、あまり関係ない教えであるであるように感じられますが、本当は、我々がまったく気がつかないまま日常で頻繁に起きている出来事なのです。 もし、何かこれが欲しいと想ったとき、それに支配されてしまったらそれは受容となり、貪りという煩悩となります。 もし、何か拒絶し、それを取り除こうとして怒りを感じたとき、これも拒絶しようとする怒りという煩悩となります。 よく、恋愛でいい人がいないと真剣に探しもしないのに愚知る人がいますが、ものの本質が見えていない、これこそが愚痴と呼ばれる煩悩となります。 仏教では、執着や嫉妬などを含めて煩悩のことを三毒や五毒といって人間の苦しみの輪廻の根源の基を生成してしまうものなので、忌み嫌い、顕教、密教も煩悩の放棄と煩悩の変容の道を説きましが、この煩悩を成長させず、苦しみの根本を断つにはどうしたら良いのでしょう。 まずその煩悩のありように気がつくことです。それには、まず自己観察する必要があります。 次に知恵を働かせることです。 究極的には煩悩も知恵も表裏一体で顕現しており、どちらも等しく人間の真実であるからです。煩悩を捨てる必要はありません。その煩悩のありようを見届ける必要があるようです。 煩悩こそ悟るための究極のテーマだといってよいでしょう。知恵があれば、煩悩に支配されずに生きて行くことができるようになります。その道を「座談会」で解き明かしましょう。
2008/10/08 9:15:00
無事「百人斬り」のイベントが終了いたしましたが、ご参加してくださった皆様方やファイブアーツ並びに茶通のスタッフの方々に感謝いたします。 さて、今回のイベントは、恵比寿で行ったのですが、奇門遁甲の吉方位の「風遁」という方位を用いております。その求安の吉効果は、いらっしゃた皆さまに転写できたはずです。 しかしながら、皆さまの心配事の妄念が幻身となってイベントがはじまる前から筆者の夢にも顕現して参りました。イベント終了後の数日もそれを完全に自然解脱させるのに一週間かかりましたが、皆さまの妄念というか執着の結果生まれた多くの幻身が筆者の身体、特に喉のあたりに憑依が貼りついていましたよ。 人間の想いや念というものは、時間と空間や場所を越えてやってきます。虹の身体を持つものは、その幻身を虹の身体に変容することがきます。つまり、不浄な意識を純粋な意識に変容することができますが、密教のような手法によって煩悩を知恵に変えるのではなく、あるがままの境地にあるからこそ自然に自己解脱するというゾクチェンの手法を用いています。 煩悩や妄念を野放しにして生きて行くと想いもしない災いを自ら呼び寄せてしまいます。まずそのありようから皆さま方に説くことが必要であるようです。これが百人斬りを行って得た成果であり、知恵の道の発現であるといえるでしょう。百人斬りに参加くださった方々があれからどのようになったのかを知るのが楽しみのひとつとなりました。 2008/09/16 13:39:34
子平の格局のありように一番詳しい文献は、徐大昇の『子平三命通変』の『百章歌』にあり、筆者はこの書物に明澄透派『子平大法』の源流を見ることができましたが、現代の子平は、明らかに『百章歌』に書かれている文章を正確に解釈できなかったことに大きな原因があると筆者は考えています。 筆者の子平の原典研究で一番感動したのが、この『百章歌』であり、これを読めば誰でも明澄派の子平に辿りつけると想いました。なぜなら、あらゆる命式の解釈が詩という形でストックされているからです。そこには、まさに経験によって導き出された子平の純粋でありのままの判断が書き残されているのです。 そして、この『百章歌』の格局の見方には、すべての子平の見解が集約されているからです。特に議論の的になっている「傷官傷尽格」というものは、確かに原典にもありません。しかし、傷官傷尽という状態の命式は、確かに存在します。しかし、これは筆者が子平の「傷官格」において発見した歴史的大発見であるといってもよいものですが、このブログが発表の場になるとは想いませんでした。これを論点に原文を紹介しましょう。 傷官歌 傷官傷盡最為奇 尤恐傷多返不宜 此格局中干変化 推詳須要用心機 火土傷官宜傷盡 金水傷官要見官 木火見官官要旺 土金官去返成歓 惟有水木傷官格 財官両見始為歓 傷官不可例言凶 辛日壬辰寶在中 生在秋冬多秀気 生於四季土財豊 丙火多根土又連 或生申月或生亥 但行金水升名利 火土重来数不堅 惟有木運東方地 無栄無辱度流年 傷官不可例言凶 有制還他衣禄豊 干上食神支帯合 児孫蒲眼壽如松 傷官遇者本非宜 財有無官此福基 時日月傷官格局 運行財旺貴無疑 傷官傷尽最為奇 若有傷官貴便随 特己凌人心好勝 傷刑骨肉更多悲 傷官傷尽は、もっとも奇と為す、尤も傷多を恐れ、返って宜しからず、この格局中に干が変化する、推詳須らく要す、心機を用いよ。 火土の傷官は傷尽が宜しい、金水の傷官は、見官を要す、木火は官を見て官が旺じるを要す、土金は官が去ることが返って歓びと成す、惟有り水木の傷官格は、財官ふたつを見て始めて歓びと為す。……(省略)。 傷官傷尽というのは、傷官見官にならない命式のことであるようです。つまり、傷官格で正官が命式にあると傷官が正官を傷つけることになるからです。ここでは特に火土傷官は、傷官傷尽がよいといっております。火土傷官とは、丙己、丁戊の関係ですが、丙己壬、丁戊壬の関係が傷官見官と呼ばれるものですが、このような関係にならない命式を傷官傷尽という、つまり、命式に傷がまったくない命式を指しているようです。傷官傷尽が奇と為すとは、奇とはめずらしいことを指し、特殊な才能を持つ人を象徴しております。まさに貴とは社会性とともに共存していきますが、奇はまさに社会において特殊なその人にしか表現できないオリジナルであるといえます。 その他の傷官は次のように判断しております。 金水の傷官は丙火、丁火を必要とします。命式が寒くなるためです。(丙庚癸、丁辛癸) 木火の傷官は官があって官が強いこと。木生火の命式なので、木を金で裁断した方が燃えやすくなるためです。(庚甲丁、辛乙丁) 土金の傷官は、命中にある官が去ったとき、歓びとなると書かれています。(戊辛甲、己庚甲) 水木の傷官は、財と官のふたつがあることが歓びになると書かれています。(丙壬乙戊、丙癸乙己)この部分に関しては、明澄透派の『子平大法・心得』にも同じような見解があります。 注目すべきは、「傷官不可例言凶」の傷官はたとえて凶と言うべからず。傷官だけをたとえて凶命であるということを言ってはならないと述べています。命式の傷官というのは、最初の判断にあるように干の組み合わせによって変化するので、心機を用いよ(つまり、知恵を働かせなさい)と『百章歌』の作者が述べています。傷官といった象徴のみで、ただ命式にあるから凶と言うような愚かな判断をしてはならないという子平の教誡といえるでしょう。一般の日本の四柱推命は、このように傷官という象徴だけで判断を下しており、命式における天干や地支との関連を無視した見方であります。傷官にもいろいろな多様性があるのですよと『百章歌』は説いているのです。 辛日で壬辰がある命式も良いと言っております。秋冬の生まれならば、秀気(優秀である)が多く、土用に生まれていれば、財が豊かであるとしています。(これは、イチロー選手の命式に当たる)イチロー選手の命式は従児格でありますが、傷官格という立場で見たときも傷官傷尽の命式ということができます。 壬辛壬癸 辰卯戌丑 傷官傷尽にならない場合の命式、つまり、傷官見官になった悪いケースの命式の解釈は、最後の歌に書かれています。弱いものいじめをする人で、常に勝ちを好み、肉親や親しい人と争いが絶えず、悲しみが多いとしています。(甲丁辛)(癸甲戊) 傷官格やその他の『百章歌』の格局の詳しい解釈は、出版予定の『子平三命通変』で発表しようと思っております。 2008/09/11 11:00:54
子平推命にとって格局を決定することは、非常に重要なテーマであり、格局こそが子平といっても間違いではないようです。しかし、現実は多様性に富んでおり、限られた概念によってそれを推し量ることができなかったために原典においても様々な方法が模索されたようです。 筆者の原典研究によって発見した徐大昇(筆者のペンネームとなっている)の『子平三命通変』の『百章歌』は詩賦の形で書かれており、六格(1官、2印、3財、4殺、5食、6傷)を主要格局として分けており、この中に入らない命式は個別のカテゴリーに分類した格局に分類しております。この『百章歌』の格局の特徴は、月中の蔵干を基に格局を求めています。そしてたとえば蔵干に正官がなくても月干にあれば、それもまた正官として判断するといった柔軟性をもっております。明澄透派の『子平大法』は節気蔵干によって内格を決定しておりますので、徐大昇の伝統の子平をまさに世襲していると言うことができます。さらに「食神歌」の「身廣体胖衣禄厚」という内容からも『子平大法』の「助旺心広兼体胖」の一説は、『百章歌』の影響を多分に受けていると考えられます。 『滴天髄』は、『百章歌』では、語られなかった特殊な干関係によって生じてくる運命を明らかにしようとしました。命式で一見同じように見える関係も多くの多様性を含んでいることを発見したのです。その影響を強く受けたのが、明澄透派十代の王文澤氏の『子平大法心得』の格局の取り方です。君側・応験・正位によって体神と用神を決定した段階で格局が決定されていくといった極めて独自な見解によるものです。 明澄透派の『子平大法』『子平心得』の最大の特徴は、扶抑と調候によって最終的な干支の喜忌の程度を決定していきます。現象の大きな変化については、扶抑よりも調候に大きな影響があったときに、人生において大変な現象が起きていることを観察によって発見したといえます。この見解は他の学説にない、明澄透派独自の優れた判断だと筆者は考えております。ゆえに『子平大法』は『欄江網』を批判できたのです。 子平はすべての多様性に対応しようとしたために、つまりすべての現象を子平によって解釈しようとしたために多くの学説を産んでしまいました。しかし、古代の中国国家が採用した子平が『百章歌』と『滴天髄』であったことは明らかな事実です。これも筆者の最新研究によって得た情報であり、発表がこのような形になってしまいましたが。 このように『百章歌』『子平大法』『滴天髄』『子平心得』の四者四様の格局の取り方が異なってしまったのは、その時代や社会的な価値観によって柔軟に対応しようとしたためです。だからどの派のどの学説が正しいとかを議論することは無意味なのです。問題は、占い師として誠心誠意で対応しているということだけが問題なのです。持っている経験や知識をフル動員して困ったお客さんのために知恵を働かせることではないでしょうか。 明澄透派の子平について台湾のどこのだれが言ったか解からない情報に振り回されることなく、自分で本当の子平というものに向き合って、確かめてみたら良いでしょう。私は自分で責任の取れないことはできるだけしないようにしております。 子平の格局のありようを明らかにすることは、我々が今現実に起きている多様な出来事をあからさまに写し出す「叡智の鏡」であることを悟ることになるでしょう。そこから新たに人間として成長していける道が開かれますよ。 中沢新一さんの『セム』から引用させていただきました。 知恵のカッコウ(リクパィ・クジュク) 世界の多様性は、その本性において二元性を越えたものでありながらも、(個体性をもって現象する)その個体性そのものは、心がつくりあげる概念の構成からは自由である。 世界に「まさにかくのごときもの」と確定できるようなものを思考することはできないが、かくのごとくに(心によってつくりだされ)まざまざと現れた多様な現象はそれ自身において(善悪の判断を越えた)絶対的な善なのだ。 存在は自ずから成就しているのであるから、努力によって何かをつかみとろうとする心の病気の根を絶って、あらゆるものがそのままで完成状態にある、その中に無努力のままにとどまるのが、私の教え。 百人斬りにご参加くださった方々にこの「金剛の六行詩」を捧げます。
2008/08/19 17:04:56
人は何か生み出そうとするとき、心象形性に問題が生じる。カルマや煩悩によってすでに変質、変形した心象形性がさらに大きく歪められるからだ。人は絶対的主体を把握していないと命運によっては、人は、絶対的主体が分裂した病気のような行動や行為を発生する。それは、あるがままの自分ではない別の何かになろうとしたためだ。 社会的強制、文化的強制、宗教的強制等のあらゆる束縛から自由になるべきだ。拒絶する(引きこもりや切れるという現象)ことなく、放棄することなく、あらゆる束縛を解き放つべきだ。 我々はあらゆる次元を共有してして生きている。そして我々には、すべての次元が平等に与えられている。しかし、わずかな次元の存在しか我々は認識していない。その次元をあらゆる次元を生きる知恵として還元すべきだ。ある次元の固定概念に縛られることなく、すべての次元を救う存在になるべきだ。 ある一定の教えのみによって心象形性を行うと本来の自分ではない別の何かになってしまう。それは自分が対象化した存在と見誤った段階から派生する。ある教えや見解に染まった心象形性は、同じタイプの人間を量産してしまう。しかし、それは天然の自分ではない別の何かになっている。 その状態に自分自身で、きずくことは、非常に難しいことだ。しかし、その生き方を続けていると物事が自然のサイクルで回りださなくなり、何もかもが上手く行かなくなり、最後は破局や限界に行き着くだろう。なぜなら、あるがままではないからだ。 自分の欲望の対象が信仰や宗教になってはならない。それは自分の運命のありようを無視した生き方だからだ。『滴天髄』では命を知らないということは、自分の進む道が見えない知恵がないものであると説いている。命を知らないということは、ただカルマや煩悩を成長させて作り上げた生き方しかできない。自分の運命の本質を悟った人は少なくとも欲望を満足させるだけのためには、生きなくなるはずだ。なぜなら、それこそが命を知るということだからだ。 どんな状況下にあってもあるがままの自分を見出して行く必要がある。自分自身を完全に制御し、すべての現象と統合して行くべきだ。それは三昧の境地にあるとき、それは現実のものとなる。 宗教とは、宗教家の為す求道による精神的満足が到達点であって、それ以上のものはない。人間の本来あるべき姿は、宗教といった固定概念によって特定できるような狭苦しい中で人は存在していないのだ。つまり人は広大無辺であり、それを縛ったり、制約することなど誰ができようか。 阿藤大昇の 百人斬り、 講演、 セミナー、 台湾風水ツアー がいよいよ始動することが決定いたしました。ブログを読まれた皆さまの多くのご参加をご期待し、お待ちしております。ファイブアーツのスタッフの皆さま、どうぞ、よろしくお願いします。 2008/08/09 21:31:18
~中国宋代の徐大昇の子平推命~ はじめに 徐大昇の『子平三命通変』は、中国の歴史の舞台に初めて登場した子平推命の原初の原典であり、中国唐代から宋代の文化的伝統を背景に完成した究極の「子平術」と呼ばれる運命学を書き著したものである。中巻の『百章歌』を始めとする唐宋の詩賦で書かれた『歌訣』には当時の運命的世界観がありありと映し出されており、これを以ってして、本当の中国の子平推命の根源に触れることができる。現代人である我々は、まだ運命という本質に本当の意味で向き合おうとしていなかった。古代中国人は、子平を通じて我々が本来潜在的に持っている運命的可能性を開示して多様な運命のありようを明らかにしようとしている。現代においてこの徐大昇の子平を説くことは、我々の未来に大きな夢を託すことになり、現実を強く生きる知恵と勇気を与えることに他ならない。 2008年 立秋 阿藤 大昇
『子平三命通変三巻』の構成 上巻 注定真論、喜忌編、継善編 中巻 歌訣 下巻 十八格局 2008/07/23 14:03:58
人間の執着をすぐさま断ち切り、煩悩やカルマの障害を克服するには、厳しい戒律を課すのが最も効果的だ。かつてブッダがおこなったような出家が理想的だ。しかし、それは悟りに至るある段階の教えに過ぎず、修行や悟りそのものではない。 人間は肉体があるがゆえに執着してしまう。すべてが二元的な在り方の内に閉じ込められている。これが輪廻であるからだ。それを解き放つには、三昧の境地を悟ったからといってもカルマと煩悩の浄化にかなりの時間と修行が必要となる。最終的には意識を完全浄化しなければ、修行は完成しない。 みな修行の途中であり、自らの三昧を見出して行くほかに道はない。何かをしなければダメだというような見解は、単なる商法行為に過ぎない。そこには何の価値もない。自らのロジックの中に引き入れることで、利益を生む方法が商法であるからだ。しかし、それが真実の教えであれば、まったく話が違ってくる。反対に真実の教えであるように振舞うことで、意識を支配しようとするのが、宗教の正体だ。それは真理という概念の中に縛られている。 人は生きているのではなく、ほとんどの人々が何かを依存して生かされているようだ。そこから離脱するためには、受容も拒絶も不要だ。あるがままの自分に立ち返る意外にその方法はない。つまり、二元的な方法によってそれを解決することはできない。二元的な立場で存在していると考えている以上そこからの解脱は不可能だ。まずその見解から離脱しなければならない。 悪も善もその人が選んだ状況によって等しく顕現している。どちらを選んで生きたとしても輪廻の中にいる限り、結果は等しく同じだ。善を為すことや悪を為すことが問題ではなく、その人の心がそれを正しく判断できているかというのが本当の知恵である。 知恵がないから人は挫折し失敗する。知恵を持って行為することこそ、それ以上の行為はない。それでも失敗するとしたらそれは乗り越えられない運命やカルマであるからだ。その知恵を輝かす教えこそ無上の教えであり、すべての限界を乗り越える無上最上の教えなのである。 2008/07/21 11:18:22
心とは、常に現象と一致して顕われてくる。事の善悪や美醜に関係なく、すべては心が生み出している。人間は勝手にその対象を固定概念によってそれを掴み取ろうとする。しかし、心はそんなもので掴むことも支配することもできない。思考の構築物は幻影であり、心が投影したものに過ぎない。そこに人は意味を論じようとするが、それは煩悩を生み出す基になるだけだ。もともと意味ある行為などはなく、すべての行為の善悪という概念すら消え果たところに精髄である光明が存在する。 意味があるとか意味がないということを棄て去ったとき、中庸の真実が浮かび上がってくる。中庸を強調した教えや真理を強調した教えに意味はない。知恵とは、知識や思考を弄くり回すことではなく、ありのままの現象を素直に受け入れることだ。対称に酔ってしまったとしてもその対象に支配されることはない。ただお互いのカルマや思考が戯れているだけで、恋愛も思考が生み出した幻影であり、酔いが醒めたとき、陶酔が幻影であったことに誰もがきずく。しかし、それを素直に楽しめば何の存念の痕跡を残すことはない。 心こそがすべてを生み出す王であると知るならば、それを対称化したところに神が存在する。しかし、その心すら思考の構築物であり、その神も幻影に過ぎない。その神を信じることは、幻影が幻影を崇拝しているようなものであり、すべてが錯誤に当たる。 つまり、見解を持たないことが見解であり、執着に落ち着く場所などない。心は執着の居場所を求めて彷徨い続けている。しかし、生み出されてくるものはどんなものであれ等しく空である。だから執着不能なところに執着するのである。そこには何の局所性もなく、心の落ち着く場所もない。常に心がふらふらして定まらないのは、リクパと意識が一致していないからだ。だからこそ『金翅鳥タントラ』のように執着不能なところで励むのだ。 自然の生き物はすべてあるがままに生きているが、人間だけが自然と調和せずに心が勝手に自然を弄くり回している。人間だけがあるがままに生きていないことがすべて我々の目の前で生起している様々な問題を産み出している。だからといって人類がみんな原始人に回帰しろというのではなく、自然と調和した生き方に回帰すればよいのだ。それは五術六大課を基とした生き方にも通じる生き方ともいえよう。 2008/07/09 18:19:42
現代は、宗教も占いも混同した混沌の時代であり、すべての衆生は、その時代の濁流に呑み込まれ、無意味な教えに翻弄されているがゆえに甘露である真実の教えに辿りつけない。 何を信じ、どのような教えの道しるべを辿れば、あらゆる迷妄を断ち切る無上の教えに出合えるのか? そしてその教えが指し示す遥か彼方にある悟りに行きつけるのか? 幾つかのアプローチと模索が必要だろう。 伝統的なプロセスを強調する教えは、現代人にとっては、かなりハードルが高いようだ。仏教は、まさに伝統を重んじており、密教はさらにその奥底に閉じ込められている。密教に関しては西洋の学者がタントラ仏教について多くの詳しい考察を公開しているが、密教は風水と同じようにエネルギーに関する知識が無ければ、理解も修行も不可能だ。当然ながらエネルギーを理解していない者が密教や風水を語ることはナンセンスなのである。 ここに新たなるテーマを起こそう。 子平による運命の直指教導 宗教の解体 占術の解体 運命学の命と運と教誡 運命の改善 時間と空間に関する教誡 風水におけるエネルギーの問題 新たなる教・律・論の構築 最終的には「ブッダとはなにか?」とその境地から得られる「現実を力強く生きる知恵とは?」を中心に人間の運命のありようを解き明かす必要があるだろう。 教えとは、すべての人々のハードルに合わせて説かれており、そのハードルの高さは、教えを説く人の見解によってみな異なっている。たとえば、顕教では何万劫の歳月を経ないとブッダになることはできないと説いているが、密教でも数回かの転生を経ないと解脱できないとしている。しかし、ゾクチェンでは、今の一瞬を悟っていればブッダであり、その認識が無ければ有情であると説いている。つまり、見解によっては誰でもブッダになる道が大きく開かれているのである。 占術においても見解によってまったく使い物にならない占いが多数ある。そんな占いを過大評価してその見解に従ってしまったら人生に大きな損害を与えることになるだろう。 今の現実に最も効果的で、今すぐ必要な教えを求めず、無意味な教えや無意味な占いの見解に従っているのが、残念ながら現代の我々の状況である。我々はまずこの見解のありようから基本的に学び、新たなる真実の見解を育てて行くことから始めることにしよう。 2008/06/27 10:54:27
二元的なアプローチによって本質に回帰しようとすることは、人間の本来のありようを如実に示している。 60甲子は、すべての人間が平等に体験するものである。時間と空間が織り成す、還暦とは、人間として60甲子のすべてを経験したことに他ならない。人生の甘きも苦きも共に味わいきったのである。 子平はまさにこの60甲子が人間に与えるありようを示したものに過ぎない。60甲子からなりたつ命運のなりたちによって個における人生の富貴貧賤や禍福が明らかになる。 これは人生における二つの視点から主観を設定しているためである。格局と用神というものを主観として人生を観ると社会的な人生の成功や失敗や富貴貧賤といった概念に支配されてしまう。 しかし、もう一つの人生の絶対的主体(体神)を見出したとき、人は人生で顕れてくるすべての現象の吉凶禍福を超えたところに人生の価値を見出すようになる。つまり、社会的な成功だけが人生ではないし、社会的な価値観に縛られることなく人生を楽しんで行く道を見出す。 これこそが子平が説く絶対的主体というものであり、誰もが絶対破壊不可能な誰もが羨望する絶対的対称性と対面しているのであるが、それに気がつかず満足できなければ、無限の生を費やしたとしても満足することはないだろう。 つまり、悟れないのだ。すでに絶対的主体も絶対的対称性も獲得しているといった見解に立ったとき、本来の自分のあるがままの立場に立ったのだ。そのときにこそ本当の人生のありようがみえてくる。運命学で言うならば、命を悟ったのである。 これは明らかに仏教で説く悟りと寸分の差はない。ただ悟りに向かうアプローチの違いに過ぎない。子平は、時間と空間といったまったく清らかな空なる元素をもとに人間の運命を推しはかろおうとするので、そこには、一切の浄・不浄といった概念は存在しない。 子平は、時代や時間と空間を超えて純粋に真実に人間のありようを示すことができる。子平原典の『百章歌』『滴天髄』は、そこに当世の価値観を顕わにすることで、人間の富貴貧賤と人生の禍福を明らかにしようとしたが、すべての人が、すべての個としてのありようの本性に辿りつくために説かれた教えである。 子平は、すべての人々を悟りに向かわせるための占いといえるだろう。この子平という占いはすでに現代の一般の人々が考えている占いという概念の枠を遥かに超えたものであることを現代人は、新たに認識しなければならないだろう。 だから、子平を行うのに、正しい意図が、つまり、純粋な動機が必要だ。それは真実の自分と対面することであり、そこから純粋に悟るという体験に向き合うことになるからである。 2008/06/27 1:54:08
奇門遁甲に関して正しい運用法を理解している人は非常に少ないといえよう。奇門遁甲を説く門派を超えて真実の奇門遁甲のありようを説く必要があるだろう。 門派は伝統の血脈をたいへん重要視するので、本当の口訣を世に明らかにすることはまずない。しかし、伝統のあるものは、原典というものが存在し、そこから門派が発生していることはすべての門派のありようといえるだろう。 拠所のない門派は、明らかに意図的に創作された奇門遁甲であるといってよいだろう。筆者の究明した奇門遁甲は、少なくとも伝統的な奇門遁甲に回帰しており、誰もその説を否定することはできない。なぜなら、それを否定することは、古代中国の伝統文化を否定することになるからだ。 現存する奇門遁甲の文献は、北京大学図書館や故宮博物院図書館、主要な北京図書館、上海図書館に眠っている。その奇門遁甲の写本やテキストは、明王朝や清王朝のときに著されたものである。 問題は文献が正しいとか、血脈が正しいとかということではなく、古代中国の実際に三国の諸葛孔明や明宰相だった劉基が使っていた奇門遁甲のありようを明らかにしようと想うことは、術の継承者として古人に対する最低限の敬意をはらうことになる。 実際に諸葛孔明の子孫が残した写本が現存しているのだ。そして劉基の複数のテキストも実際に現存する。(あるブログに筆者が自分は諸葛孔明の子孫だというようなおかしな記事が載っているが、筆者はただ諸葛孔明の子孫が書き残した奇門遁甲の写本が存在することを紹介したに過ぎない。奇門遁甲と真剣に向き合っている人ならすぐ解かるはずだが。) 筆者の結論としては、普遍的なロジックとしてみる奇門遁甲と個人的なロジックとして用いる奇門遁甲が存在することだ。つまり、風水として用いられるものと方位に用いられる奇門遁甲が存在する。このありようは風水的な概念として坐山と立向として表現されている。 故張明澄先生は、明澄透派13代の張耀文を名乗り、数々の奇門遁甲の典籍や秘伝を公開しているが、一般の方々は、それらの著作を一読もされずに一般の奇門遁甲に頼って運用しようとしているが、これが大きな間違いといえるだろう。 門派は、誤って秘伝が伝わらないようにわざと秘伝をバラして出すということをまず、認識しなければならない。さらに秘伝は、段階的に悟って行くプロセスを秘めているのだ。一冊の本で奇門遁甲のすべてを語ることは不可能だ。それには、師からの伝授が必要だ。 一般の占い師の奇門遁甲は、所詮、概念の構築物に過ぎない。なぜなら、体験と経験がまったく盛り込まれていないからだ。ただ概念によって抽象的に本質を否定しようとしているだけだ。それは自分だけの利益の為に他を排除しようとする独善的な行為に過ぎない。本質を歪めてはならない。しかし、その本質を素直に受け取れない人々にこそ多くの問題があるといえよう。 受け取る側の態度がなっていない場合もある。方位によって人生の問題のすべてが解決できると思い込んでいる。仏教で言うならば、我執の窮みである。吉方位をむさぼってしがみつき、常識を無視して何でもかんでもその方位をみさかいなく使おうとする。これらの行為は煩悩に支配されているのであって冷静に開運できるような態度を取っているとはいえないだろう。 人は煩悩に支配されていることはすでに述べたが、五術六大課を用いるときも、それらに支配されてはならない。術士やその信者たちが吉方位を使おうという行為は、幻影や幻想を生み出しているだけで、問題の本質を無視した思い込みの吉方位や開運を夢見ているのに過ぎない。 なぜ現実を直視しないのか、まず自分の運命のありようを観察することから始める必要があるのではないか。そのとき、初めて運命的可能性があるなら、そのときこそ、奇門遁甲を用いれば良いのである。 奇門遁甲は時間と空間を用いるので、五大元素で言うならば、空の元素との融合を説くものである。ゾクチェンの修行で言うならばロンデのナムカーアルテーの修行(空間との融合と放松を説く)に近いといえよう。ある空間と時間の中にすべての多様性が包含されているので、ロンデの修行は、この多様に出現する現象を何の努力もなしに自らの三昧に統合していくのである。 そこには善悪や成敗といったものを区別する必要はない。つまり、奇門遁甲は、これらの多様性を区別する知恵であり、吉のみを目指してもそれを得られない場合があるし、反対に凶に遭ったことが結果的に人生の経験に活かされる場合もある。 そもそもすべての現象に吉凶などは、本質的にはないのだ、すべての人々に60甲子の命運は平等に廻って来ている。ただ60甲子の命運がどの順番に産まれたかによって個人的な良し悪しがそこにあるだけだ。個人的な主観から観たとき、初めて運命と呼ばれる概念が生まれてくる、といってよいだろう。これが子平という推命術の正体だ。 奇門遁甲を用いるということは、天地の自然のありようと融合し統合しようとするものである。そこには、邪念や妄念が入り込む隙間はない。純粋で透明な意識でなければ、空間と統合することはできない。だが、空間の本質には穢れも否定的なものが何もないのだ。だから、あるがままにその空間のエネルギーと自分のエネルギーを統合して行けば良いのだ。 そのとき、九遁や返首、守門の吉格であれば、速やかに顕現が展開して無から有が産み出される。つまり、カルマ的な物質化現象が顕現する。(この現象が起きるには個人差があり、時間がかかる場合は、奇門遁甲の運用における精密な教誡がある。テーマや人によっては風水や家相や方位を併用する場合がある。) 自分の本性を悟り、その潜在的可能性を実現するために奇門遁甲は存在しており、これが奇門遁甲の真実の運用法だ。 2008/06/22 14:11:17
ブッダは、すべての教えを転覆したのではない。すべての教えを解体して、争うことなく、すべての存在をニルバーナに導く教えを説いたのだ。それこそがブッダの説いた真理の教えだ。 ニルバーナを達成していない者にニルバーナとは何かと質問することは無意味だ。それと同じくすべての教えを転覆したナーガールジュナの教えも大きな意味を持たなくなる。 仏足頂礼は、ブッダに対する尊敬の念に過ぎない。それを解脱や悟りに結びつけることは、自分の本性を穢してしまうことなのだ。 時間と空間を超えて顕現してきたものを人は、それを拒絶することも受容することすらできない。それは真実のありようを顕わにしているからだ。 いま本当に必要な教えを保持し、実践すればよい。それ以外の教えは、何の効力を持たないだろう。しかし、教えの概観と効用を知っていなければ、それは手探りで解脱を求めている妄人と同じだ。 「九流三教」という言葉は、現代の宗教のありようを如実に示している。いったい何を信じていけばよいのか。五術六大課とは、まさにどんな時代やどんな空間やどんな場所にあろうが、真実の自分を顕わにする道しるべとなる。 伝統がまったくない、つまり、見せかけだけの教えがまかり通り、世を動かしてしまったことが、多くの問題を作り出している。反対に伝統があるのに、まったく伝統の本質を伝えることなく、民衆を解脱のいつわりへと導いた宗教者たちも存在する。 本当の解脱と概念で作り上げた空論の間には何の関係も接点もない。それは解脱の境地にあるとき、すべては明らかになる。 ブッダの説いた四諦八正道(三十七菩提分法)の教えをいくら概念化しても真実に辿りつくものではない。それはブッダの直接体験から生み出されたものであり、その体験を実現するためには、あらゆる努力と工夫が必要だ。ただ原典を読み解いているだけでは何にもならない。 ゾクチェンの教えは、明らかにブッダの教えを成長させ、三昧と解脱を完全なる教えの土台としているので、伝統の血脈を世襲しているといえる。なぜ原典のアーガマだけに固執して修行する必要があろうか。当時と何ら変わらないやりかたでは、何も意味はない。なぜなら、そのブッダは、いまここにいないのだから。 教えや修行のコレクションを作ることに何の意味はない。確信となる教えのみを説くべきだ。教えは人を真実の悟りに向かわせるものであり、人を教えに縛り付けるものは、明らかに道を踏み外すものだ。 教えを説くものが、教えの本質に達していなければ、それはどんな教えであっても人生を生かすものにはならないし、それは一時期だけの人気の集まる教えに過ぎない。
2008/06/22 12:46:36
抽象的・象徴的・直接的な教え 仏教の教えや宗派というものを成り立たせているのは、仏教というものを対象化した教えと考えてしまったからだ。つまり、思考によって概念化された教えであるといってよいだろう。だから顕教・密教・ゾクチェンといった宗教がさもあるように想ってしまう。さらに密教には、外タントラ・内タントラ・不二タントラがあり、それに対応する伝統と宗派が存在する。修行の段階もすべて修行しなければならないようにみえる。これはすべて対象化されて分類された教えである。 顕教は、明らかに抽象的な教えであり、教科書で学んだように仏教を学習する段階だ。経・律・論のつまり、三蔵を学び、南華密教『西遊記』では、経典研鑽者に区別される。概念によって仏教を構築して行くので、外部に顕われた現象を説明するのが精一杯なため最終的に身体的な戒律や倫理的な教訓を重んじる教えとなってしまった。この段階の修行者は、抽象的ではない教えすら抽象的に解釈してしまおうとすることだ。そこには実際に体験したことと無関係な議論が展開していくだけだ。現代科学やすべての学問は、このような技法が用いられており、すべてを概念化しないと気がすまないようだ。その結果、論争に明け暮れる毎日となる。 密教は、象徴的な教えであり、呼吸にともなったエネルギーにも関係している。神経医学にも関連しており、特に金剛と金剛鈴が象徴として用いられる。金剛は、輪廻と涅槃を象徴するもので、それ以上の何ものでもない。密教は不浄な顕現を清浄な顕現に変容するので、変化の道と呼ばれている。南華密教では、功夫の修行者に区別され、エネルギーに関する修行が中心となり、漸進的に段階を踏んで三昧の境地に辿りつく方法が説かれている。ある宗派では、象徴的なものにエネルギーを付入して悟りを得るというような可笑しな教えがある。仏教的象徴の仏像や仏舎利塔にエネルギーを付入して神仏を対象化して祈る人々がいる。これは神仏を自分の外にあると対象化して自分より優れた存在であると考えて、その対象に自分を浄化してもらうという外タントラのクリアタントラと呼ばれる浄化の道だ。クリアタントラはそこから高度なタントラに取り組んでいく課程のタントラに過ぎないし、外タントラの入り口に過ぎないのだ。外タントラは苦行によって三昧(リクパ)を悟っていく道なので、現代人の一般の人々が修行するには、非常に制約の多い修行法だ。外タントラで三昧を見出すことができたとしても、それによって煩悩や死を乗り越えて行くことはできない。なぜなら外タントラの他になぜ内タントラや不二タントラがあるのかを知らなければならない。密教はそういった意味では、本尊を対象化して祈祷を行うので、西洋の宗教や日本の神道、中国の道教のように祈るという立場から見れば共通しているといえよう。 ゾクチェンは、直接三昧の境地に入っていくので、直接的な教えである。口頭・象徴・直接(セムデ・ロンデ・メンガギデ)の三種の伝授によって師が悟っている三昧の境地である原初の境地を伝授していくのである。この存在の土台とも呼ばれるリクパという境地を見出せなければゾクチェンの修行は何も出発しない。そうでなければ思い込みの概念化した三昧の境地であって幻想を追った自己解脱に酔いしれているだけに過ぎない。人間の意のレベルは非常に微細なもので、他人からはそれを理解できない。まさに身口意の意は秘密の存在なのである。だからグルヨーガが一番重要なのだ。師が悟ったリクパを頼りに弟子は自分のリクパを見出していくしかないのだ。南華密教では、「カギュ派の六法」つまり、内火・幻身・修夢・光明・中陰・転移がゾクチェンの修行段階に相応するものである。 本当の教えを説く仏教者ならば南華密教『西遊記』の三蔵・悟空・八戒・和尚の4つの道である仏教的な限界に閉じ込められることなく教えを伝達して普及すべきだ。三蔵は経典研鑽者なので、体験とは無関係な机上の空論の見解である限り、現実的な問題に直接効果はない。悟空の功夫の修行者は、様々な修行体験を積んでいるので、現実を乗り越える術を手にしている。これは五術六大課もこの範疇に入るといえよう。しかし、空を悟った悟空にも乗り越えられない限界がある。それは概念の空論に閉じ込められているからだ。悟浄は、戒律支持者であり、戒律も度が過ぎると人生に害を与える場合がある。それは人生において誰もが大切で必要な体験を戒律のためにそれを拒絶したまま人生を終わらせてしまう場合あることだ。和尚は寺院布教者であり、経営や営業によって布教していくので、企業や商店と間違えてしまう部分が多分にある。和尚は伝統的な仏教の伝統文化に縛られているので、現代に誤った形で仏教を説いてしまう場合がある。伝統文化と教えを混同して教えてしまう宗教者は以外に多い。それは時代錯誤も甚だしく現代にまったく役に立たない仏教的伝統を一部の愛好者に提供しているに過ぎない。宗教団体は、この和尚の段階が肥大化したものといえよう。人間は確かに社会的責任が取れれば、何をしても構わないだろう。しかし、自分のやっていることがどういう結果を産むのかも解からずに突進してしまうことがある。知恵と覚醒と自覚を保っていないからだ。それは大きな団体になればなるほど社会的影響力が大きくなる。そういった場合、個人が行った責任も個人ではまったく責任が取れないような段階に成長してしまうことがある。そういう場合果たして宗教的リーダーは信者が行ったことに対して責任がどこまで取れるのか真剣に考えたことがあるのだろうか。そこで行われていることは、すでに宗教が本来行おうとしているテーマと食い違っている。悟りの世界において徒党を組んでなすべきことなど世の中に何も存在しないし、得るべきものなど何もない。 問題は仏教者だからといって真実の仏教が説けるとは限らないし、仏教者とはまったく関係のない人が実は仏教の確信に迫る教えを説くこともあり得るからだ。仏教で一番大切なのは、宗派や国籍に関係なく、人間の原初の境地である三昧の境地に引き戻すことであり、それ以外のことは、人生において究極的には、本当に自分を救うことにはならないからだ。 2008/06/19 13:56:07
第一章 宗教することなしに宗教することはどういうことだろう。まず、どれそれといった宗派に所属する必要はない。もちろん改宗する必要もない。仏教徒であるとかボン教徒であるとかと考えることすら意味はないし、どの人種で、どの国籍で、どの惑星の出身なのかを問う必要もない。何時の時代の教えで、どこの国の教えで、どの伝統のどの血脈にある教えであるかということを論じることすら無意味だ。この教えには時間も空間も場所的局所性による一切の制約や限界はない。 あらゆる宗教行為はそこにはなく、見解すらも尽き果てて、実習不可能であり、宗教概念は倒壊を起こし、常識すら倒壊するので、あらゆる限界概念(戯論)はもうそこには跡形もない。すべての教えが解体したとき、ただその跡に残るのは、教えのエッセンスのみである。この教えのエッセンスのエッセンスである精髄に常に留まろうとするのだ。人はそれを菩提心と呼ぶ。 何ものにも執着しないその精髄である菩提心は、大空を飛ぶ金翅鳥のように拡大も収縮もなく、すでに何もない空間に溶け込んでいる。何ものも求めず、何の意図もなく、何の働きかけもなく、何ものも決定することもない、広大無辺の中に、ただあるがままにある。 戒律も苦行もすべて尽き果てて、何も修習しないその菩提心の精髄は、すでに完成を遂げており、努力して行う特別な真実などはない。顕現してくるものは、等しく完全に成就している。与えていないのにすでに与えられているので、敢てなすべき行為すらない。何も受け取ることもなく、何も保持するものはなく、棄て去るものなど何もない、ただ如実にあるがままにある。 その如実にすら留まることがないなら最高の仏説にも留まる可能性もない。最高の仏説が説かれたことがないのなら最高の原初的知性はどこにも説かれる可能性はない。しかし、原初的知性は、おのずと遍在しており、すべてのものとすでに堅くつながれている。結びつけることも解く必要もない始原よりあり続けている。それを人は明知(心の本性)と呼ぶけれど、それを求めたものたちには、すでにその明知と教えは存在しない。 その心の本性には否定的な部分も変容すべき穢れもない、透明な輝きがそこにあるだけだ。等しく人間の本質も同じようなものであり、何ものもそれを破壊することはできない。それに達した人は、恐れることも喜ぶこともなく、等しく空を体験する。これを絶対的主体と呼ぶけれど、それによって何を得ることもなく、すべてがただ透明な光明の輝きの中にある。 鏡のように現れた対象に執着せず、映し出されたものは、あるがままの自分をただ如実に示している。穢れているとか浄化しているということに意味はない。主体も客体も対象性も対群性もない。それを非対称性と呼ぶけれど、原初より清浄な土台は常に透明に輝いている。すべてを平等に見る蓮華王のように非対称世界を生きるという体験をすることで、対象世界も法性として顕現するから真実の絶対的対称性を獲得する。これは揺るぎない運命の確信なるものである。 その大いなる三昧の境地に常に留まろうとするのが聖仙というものである。原初より為すべきことはなく、煩悩は尽き果てて、原初の知性は顕わになる。二元的な見解は尽き果てて、輪廻も涅槃もない永久の世界に旅立つ。それを虹の身体と呼ぶけれど、あらゆる存在を尊重し、慈しみ、すべての存在を等しく救っている。人はそれを仏身と呼ぶ。 ゾクチェンのロンデとトゥゲルの修行を夢の中で行うのだ。夢の中なら限界に縛られることはない。理想の恋愛も実現しなかった結婚も成就する。出家できなかった人は夢で出家すればよい。現実に人間は、煩悩と、カルマの薫習と、意識が錯誤する知恵の障害と、肉体とに雁字搦めに縛られている。しかし、三昧と自然の光明の三昧には如何なるものもない。だからすべての束縛は自然に解放する。それこそ自然解脱であり、自己解脱だ。それゆえにその三昧の境地に留まり続ける必要があるのだ。ロンデとテクチューとトゥゲルによって意識は完全に浄化され、執着は自然に消滅していく。煩悩は無害となって知恵となり、知恵は現実を力強く生きてゆく友となる。 第一章、存在の土台のありようと、あるがままの行為と、到達すべき要点によって保持する教えの解体を説く。すべてのグルとダーキニーと護法尊とすべての人々とすべての存在するものたちを尊重し、この教えを回向として捧げる。 第二章 順序を追って悟っていく段階の修行には、多くの障害がつきまとう。悟りとはそのような過程によって悟るものではないからだ。本質は密教の外タントラのように上下・対等・同一といった二元的な立場からけっして辿りつけるものではない。まして自分の本質を外部に対象化し神格化した象徴的なものに祈願したり、供養して浄化を求めることは、明らかに本質を顛倒している見方だ。 我々は誤った観点から人生を見ている。本質は今おかれている状態がどのような立場にあり、今本当に為すべきことは何か、あるがままの本質にあれば、自ずと道は開ける。浄化とは、不浄な対象を取り除いたり、変化させることではない。あるがままの境地にあるがゆえにすべては清浄な土台の内に浄化するのである。そもそも対象に浄・不浄といった概念はない。 努力しても道は閉ざされ、行き場を失い、苦しみは減るどころかますます増大していくだけだ。執着とネガティブな意識に支配されて知恵は煩悩によって曇らされる。本質を見失って本来の透明な輝きを失っていく。断ち切るべきは煩悩であるとしゃにむに努力しても煩悩は減るどころかますます成長する。苦行とは、完全にあるがままの自分を否定して、いきなり身・口・意の限界を破壊して欲求を否定しようとする。そして外部に現れたエネルギーについても無知なまま、自然の限界にも戦いを挑もうとする。しかし、それはブッタですら無理な相談だった。煩悩のありようを、外部のエネルギーのありようをまったく理解していないからだ。 苦行によって明知を悟る道には、多くの障害がある。一番の要因は過度の努力を強いているからだ。煩悩を無毒化するには、三昧の境地を維持していくよりほかに方法はない。一瞬三昧に入ったからといってもそれでは、煩悩に対して何の特効薬にはならないのだ。 密教の段階では、煩悩を知恵に変えることはできても、無限に派生する煩悩をすべて知恵に変えることには限界がある。なぜなら二元的な見方によって浄化しようとするからだ。不浄な顕現を清浄な顕現に変えようと常に意識してしまっているのである。まして現実の人々はそのような状況の中で増大していく煩悩を知恵に変えることは不可能だ。密教にも限界があることを知らねばならない。すべては対象に支配されているからだ。その原因は人間が内部に本来持っている執着から来ている。つまり、それが煩悩の正体なのである。 密教の後に出現したゾクチェンは、密教とはまったく違った方法で、煩悩にアプローチして無毒化していく。つまり、密教の持っていた欠点を見事に克服したといってよいだろう。しかし、心の本性である明知を見出すことができなければ、ゾクチェンの修行は何も出発しない。その為には師からの伝授が不可欠だ。師の伝授の血脈なくしては、ゾクチェンの修行は不可能だ。師を求めずに暗黙のまま修行する人は多い。だがそれでは一生の生涯を費やしても真実の悟りに辿りつけないだろう。 第二章、煩悩のありようと、外タントラの教えと、ゾクチェンの教えを説く。 第三章 運命の確信を得るということはゾクチェンの段階ではロンデにおける「疑いがない境地に留まる」ということになる。まさに真実の運命学が行っている自己観察こそが見解なのである。二元的な見解を超えられないことが、すべての解脱を阻む原因や障害になっているのだ。 そのためにメンガギデの教えでは、トゥゲルとヤンティーの修行を行って徹底的に二元的な見解を開放していくのである。明らかにテクチューの教えの段階を超越しているので、ボン教のゾクチェンの教えでは、テクチューの教えは漸進的な教えで、トゥゲルは空を飛んで行くようなものだというほど修行のレベルに格差があるのだ。だからトゥゲルの修行は飛び立つ時期とタイミングを選ばないといけないのだ。 テクチューの修行を完成させたということは、完全にすべてを棄て去って飛び立つ準備の確信と確証を本当に得たから、トゥゲルの修行を行えるのである。つまり、それは死を決意した瞬間でもあり、それを誰も決めることはできない。本人が飛び立つ決心をするか否かの問題である。テクチューの修行のときもそうだ。心の本性に留まり続けるという揺らぎない確固たる決断がなければ、テクチューの修行は出発しない。つまり、トゥゲルは死の体験をすることなく、死を体験する教えといえるだろう。トゥゲルは人間の死を超えてしまう教えだ。 ゾクチェンは本来人間がもともと不可能であることを実現しようとしているのだ。しかし、人間にはどのような存在にもなれる法身と呼ばれるダルマカーヤを持っているのだ。さらには、完璧な理想を実現できる富みの身体である報身と呼ばれるサンボーガカーヤも持っているのだ。飛び立つ決意をすることだ。その絶対的な確信によってどんな状態や状況にあろうと必ず解脱できる。それこそがゾクチェンの本当の真髄であるからだ。確信を持った心こそがすべてを解脱させるキーワードであり、大いなる原初の知恵を発現させることも不可能ではない。 三身を成就することがゾクチェンの到達点であり、しかもそれを維持して行く方法を持っている。そしてすべての存在を遍く平等に救っていける存在である。それ以上の存在がこの世に出現していることなど、あり得ないことだ。しかし、ゾクチェンの教えはそれを可能にしているのだ。その揺るぎない絶対的確信によって仏性に到達しない存在など絶対にあり得ない。すべては、完全成仏、完全解脱している確信を心の本性において完璧な自己解脱を自然解脱を、すべてがすでにあるがままに成就しているという確信を、完璧な認識を超えて完全に理解した人こそ、本当のブッタとなった存在であり、そのような概念すらブッタにはすでにない。完全に存在の彼岸にあるからだ。 第三章、ゾクチェンのメンガギデのテクチューとトゥゲルの修行の真髄の考察を説いた。 第四章 ゾクチェンという教えの伝統にも縛られることなく、虹の身体の伝統を生み出す教えを説くべきだ。法身・報身・化身のブッダの三身を顕現させるのだ。すべての教えの血脈は、人を救うためにあり、すべてが平等で平和な社会を築き上げるためのものだ。 社会は、すべてそのように動き始めているのだ。真実の教えしか人類の迷える存在を本質的に救うことはできないのである。人類は明らかに精神的に進歩している。人はもともと古代から現代において無限の可能性を秘めている。理想郷を説いたシャンバラ伝説や古代中国の歴史を紐解いた『推背図』が説く、すべてが平等な世界は、どんな時代にあってもすでに実現していたのである。しかし、平等な世界にあることを見誤った心ない人々が次々と問題を産み出していたに過ぎなかったのだ。 それゆえに、何ものにも惑わされることなく、自己解脱の道を、自己完成への道を突き進めばよいのだ。社会において宗教的になすべき行為など何もなかったのだ。すべてはあるがままにあるのだから、自分の人生を宗教や宗教以外の何かに制約されて自分の可能性を閉じ込めるようなことは、なくさなければならない。ただあるがままに生きて行けばよいのだ。それ以上の教えは、この世の中には存在しないだろう。それが宗教することなしに宗教せよと説く、教えの本質だ。 だがそれすら狭苦しい考え方だ。ゾクチェンのセムデの教えをお説きになる法身のクンツサンポの立場から見れば、限界概念の中にあるといってよいだろう。どのような表現であれ、今おかれた人間を本当に真実に救えるのは、時間と空間を越えた五術六大課、つまり、般若の知恵しかないというのが見解だ。すべてのありようを見直して、それを乗り越えていくしかない。地球にあるゾクチェンだけに執着する必要はないだろう。13星系にあるゾクチェンの教えも本質的には、何もかわらないだろう。伝えるべきは、ただ一つのことである。その本質を悟るための努力は精一杯すべきだ。それこそが、無努力の教えの真髄となるものである。 だから宗教やその他の教えに縛られてはならない。あるがままの自分の原初的知性に従って金翅鳥が大空をはばたくように執着せず、蓮華王のように平等な態度で、ライオンのように力強く、人間として清らかに品性を持って優雅なまま、あるがままに生きて行けばよいのだ。 ゾクチェンの教えにすら留まる必要はない。しかし、それは、ゾクチェンの教えを否定することではなく、ゾクチェンの教えの説く、概念の殻を打ち破り、すべてはあるがままの本質に到達するために究極の教えへと進化してもよいのだ。それをゾクチェンと呼ぼうが、何と呼ぼうが、それはすべての教えの到達点だ。 第四章、すべてはあるがままに本当に完成していることと、教えに縛られてはいけないことと、すべての限界概念を断ち切ることを説く。 第五章 教えの伝統には、すばらしいものがあるが、それにすら固執してはならない。自由な発想のもとに今この時にこそ必要な心の精髄である真実の教えを生み出していくことだ。これはどんな教えにもいえることだが、今のこの時代のこの時のこの場所にしか出現しない教えがあるのだ。 それを五術六大課と呼ぼうが、ゾクチェンと呼ぼうが、何と呼ぼうが、未来の人々を救う教えに他ならない。時間と空間と地点を超えてその教えは、現代に出現してくる。そのようなありようこそ、普遍的で、不変の原初的知性の戯れといえるだろう。 すべてはあるがままに完成しているというのは、いま目の前で生起しているすべての物事には、善悪や美醜に関係なく、ありのままを映し出しており、あるがままの自分を越えて出現しているものなど何もないのだ。だからその存在にあるがままに留まることこそ、本当の自分のあるがままのありようを、真実の自分のありようを悟り理解した存在といえるだろう。 人生において本来乗り越えるべきものなど何もなかったのである。ただそのとき、その現象に執着してそれを乗り越えようとしただけに過ぎなかったのだ。受容も拒絶もない、すべてはあるがままに広大な大河のように流れており、ただその流れに逆らって生きていたのだ。しかし、その流れに従って生きていく必要すらない。それは当人の自由なのだから、だが自分のやったことに対して責任を取る必要はある。 人生において何を成しても構わない。その責任を取れる範囲で、物事を行うべきだ。できないものや責任が取れないことをすべきではない。もしそれが本当にできない者のために戒律や法律があるのだ。戒律は人間を成長させるためにあり、人間を堕落させるものではない。もし人間が堕落に向かって行くような戒律ならば、保持する必要はなく放棄すべきだ。 自分のやっていることが、どういう結果を生むのか解からずに突き進んでしまうことがある。煩悩に支配されているからだ。それは五術六大課でも理解することができる。しかし、それを理解していないということは、どんなに社会的地位や名誉や財産や品格があったとしても相変わらず無知で知恵がない。つまり、無明(マリクパ)であるからだ。 問題は人間として成長や完成に向かって生きているかということだけ論じればよい。成功や完成に向かわず、堕落や絶望に向かって生きて行ってはならない。良い意味でも悪い意味でも周りの人々を巻き込んでしまうからだ。それは自分をいつわり、可能性を放棄しているのに他ならない。その行為は当人の原初的知性すらも汚してしまっているのだ。 そのような生き方やそのような教えは、必ず限界に達して滅びて行くだろう。人間の成功も失敗も不幸も幸福もすべて平等であり、どのような状況にあったとしても人間の本質を見失わないことだ。すべては空である悟りの確信とあるがままで完成しているのだから何ものにも惑わされることなく、真実の道を歩みなさい。幻術師が作り出した幻影に惑わされることなく、二元的な道を説く六師外道や世俗八法を説く教えを乗り越えて、究極の果を得なさい。そうブッタは時空を超えてそれを説いているのである。 第五章、教えのありようと、責任を取ることと、究極の果を得る教えを説く。 第六章 人間の身・口・意は、ひどい制約を受けている。あらゆるものに縛られているからだ。これはしてはいけません。あれはしてはいけません。と幼いころから徹底的に自分を二元的な立場に押し込んで、無理に心を縛ってきたのである。 その歪みが極度に現れると異常な顕現や病気を発生する。意識に強く働くと精神病に発展し、口のレベルのエネルギーに強く働くと言語障害などの六感に異常が生じ、身体に強く働くと治療不可能な病気が発症する。これは内的な現象だが、外部に働くと家庭不和とか社会における様々な問題となって現れてくる。 すべての秩序は、内外ともにバラバラに破壊されていく。そもそも身口意を調和する方法など社会はまったく考えないままその問題をなおざりにしてきたのだ。それを解明する医学も宗教も政治すらもそれを発見することができなかったのだ。外部に起きた現象に対応するのが精一杯で、内部のものまで考えが及ばなかったのである。 確信に迫る教えも医学も出現しなかった。それを発見しえなかったのは、人間の本質を悟っていないからだ。現代の政治は多くの犠牲者を生み出している。古代中国の政治は、如何に人を殺さないで政治を行うかがテーマであったのだ。それは人間の真実のありようを誰も見届けられなかったためである。雄大な時代と無限の時間の中で、ただブッダだけがその真実を一時悟ったのに過ぎなかったのではないだろうか。 どのようなレベルの嗜好物を使って自分が作り出したストレスを開放しようとするのは、誰もが狭苦しい人生を歩んでいるからだ。それを否定することからも肯定することからも離脱すべきだ。現実を実体のあるものだと信じているからこそ問題が生起してくるのだ。 ブッダが説いた空の悟りの確信があれば、すなわち夢の中であれば、それは幻影や幻想であると理解できるはずだ。それを理解できないということは、極度の執着があるからだ。それは見解によるものであるかもしれない。カルマの薫習であるかもしれない。煩悩によって受容と拒絶しているのかもしれない。 ゾクチェンの教えは、人間を内部から解き放っていく教えであり、外部から解き放っていく教えではない。現代の人間はあるがままの身口意のありようを特質をまったく理解していない。その可能性すら否定している。ゾクチェンの教えは、それを、内部より目覚めさせることによって身口意を制御しようとするのだ。身口意を三昧に統合して、生起する問題を根本的な立場に立って統合しようとするのである。 第六章、身口意のありようと、カルマと心の浄化と、内部から目覚めさせることを説く。 第七章 問題を解決することは、戦うことではない。戦いは問題を解決するどころか、憎しみを増大させていくだけだ。物事を対象化したところには、受容と拒絶しかない。すべての問題に対して戦いを挑む人は多い。しかし、それも自分の本性が写し出したものに過ぎないのだ。不可視のものやまったく制御不能なものに対してまで、そのエネルギーと戦おうとする。だがそれは無謀であり、無知である。 概念化したものは、そこにはないものまで、さも現実にあるかのように心は顕現させてしまう。もうまったく影響を受けなくなったものにすら、影響を受けていると想ってしまう。心とは非常に恐ろしいものだ。ないものをあるとしてしまう一連の心の作用は、明らかに思考の構築物であり、意味のないものだ。 煩悩もそれと同じだ。怒りが成長して行くと憎しみや憎悪になってしまう。そしてそれを実現しようとどんな対象物であろうが、その怒りをぶつけてしまうのだ。まったく本来の意志に関係のない行動をしてしまう。つまり、煩悩によって狂ってしまったのだ。煩悩に支配されて見境もなく突進してしまったのだ。 煩悩が意識に働くと、意識の錯誤が起きる。 煩悩がエネルギーに働くと、エネルギーの不調和が起きる。 煩悩が身体に働くと、病気が発症する。 宗教的な指導者ならばそこに大義名分を付け加えようとする。しかし、それはまったく意味のない行為だ。リーダーの思考の構築物に過ぎない。問題なのは、その教えを何も判断しないで、素直に受け取ることである。その教えの正邪を見破れないとしたら、どんな人生を歩んでいても危険の渦中にいる。ブッダの説く知恵とは、そのような危険を察知する能力であり、それを乗り越えて行く教えでもある。 無用なものなどなく、今起きている問題を批判するよりも、どうすべきかを説くことこそ、優先すべきだ。今為すことは、玉石を見極めることであり、現実を直視すべきで今顕現している物事に大きな意味がある。そのすべてのありようを、意味のすべてを、三昧に統合すべきだ。 それ以上のもの、至高、究極、無上を説いたものに人は出合ったとき、それ以上のものを敢えて追うことはなくなる。つまり、それ以上の頂上がない地点に行き着いたのだ。どこに行き着いたのか、それこそが彼岸だ。ニルバーナと呼ばれる境地だ。それ以上の行為を成すべきことのない境地としてあるがままに完成している境地である。すべての到達点であり、到達するという概念はもうそこには存在しないのである。 第七章、問題の解決のありようと、煩悩の成長と結果と、そこからの離脱を説く。 2008/06/11 9:51:48
阿羅漢・菩薩・如来とは? 人はカルマと呼ばれる意志・行為・満足の三つのサイクルを繰り返しながら生きている。この意志決定の段階で、我々はカルマの薫習やネガティブな意識の穢れによってもともと意識が錯誤を来たしており、煩悩を育てて行く方向に生きている。ほとんどの人が煩悩によって気が散ったまま生きている。煩悩は完全に人の知恵を曇らせている。人はさらに肉体にも縛られている。常軌を逸した行動は、明らかに活動の根本にいつも煩悩が潜んでいる。人を突き動かしているのは煩悩であり、すべては煩悩によって人は生かされている。煩悩とカルマこそが人間の存在理由だ。煩悩が産み出したものが成長して行ったとき、始めて目に見える形で、人々に害を成すものや人々を救済するものとなる。 それを仏教では、煩悩は苦しみの原因をなすものであり、害となるものであると説く。ゆえに原始仏教でブッダは、煩悩を放棄する道を説いた。密教では、煩悩を知恵に変えるエネルギーの知識を基盤とする変容の道を説いた。しかし、煩悩が無害となって知恵になる教えがある。煩悩に支配されることなく、反対にそれを支配し無毒化する教えが存在する。これこそが本来の仏教の姿であり、ゾクチェンと呼ばれる自然解脱、自己解脱を説く教えだ。そして人間の持つ身・口・意のレベルに対応しながら原始仏教は身体のレベルに対しての煩悩のありようを説き、密教は口レベルであるエネルギーに対しての煩悩のありようを説き、ゾクチェンは意識のレベルにおける煩悩のありようを説いているのだ。 人間の根源的な苦しみの原因である煩悩とどう向き合うか、どう対治していくかを説くことがブッタのテーマであり、釈迦もブッタもそれを実現したことで人間という存在の限界を乗り越えたのである。それが仏教のすべての到達点であるといえるだろう。よく仏教的象徴に用いられる阿羅漢・菩薩・如来・仏身の本当の意味とは、我々の心から遠く隔たった非日常的な存在ではなく、我々が本来持っている心の状態を示したものだったのである。我々の意識は、カルマの薫習やネガティブな意識によって歪められ、ただ一時的に曇らされていたに過ぎなかったのだ。 阿羅漢とは、三昧の境地を確実のものとして完全に自らの煩悩とカルマを克服した存在であり、完全に空の悟りの確信に達した存在であり、存在の土台をあますところなく知り尽くした存在である。このような存在を仏教では聖者と呼ぶのである。 菩薩は、対象世界を戒律のよって行為するのではなく、原初的知性によって行為していくので、一切の制約や限界がない。自他の煩悩すら行為において無毒化していく存在であるのですべての生き物を等しく救うことができる。そのありようは虹の身体に似ている。 如来とは、煩悩が無毒となって知恵になり、本来のあるがままの境地において所知障すら完全浄化を果たし、すべての現象をあますところなく悟った存在であり一切知である。この段階においては、主体も客体という区別は完全に倒壊する。もはや常識に縛られることはなくなるし、何ものにも束縛されることはなくなる。すべての存在次元を獲得したものが仏身というものであり、如来とは、外部の対象を指すのではない、みずからの本質の一切のありようが、如来として如実に現れてくるのだ。 人間は執着によって主体と客体を対象化している。夢もまた執着によって映像を対象化しているが、時間的には、ほんの一瞬でしかない。しかし、現実世界ではそれに等しい対象物が顕現してくる。我々の持っているカルマの薫習の積もり積もったものが、五大元素の地水火風空とブッダの三身の身口意が形となって本当に実在するかのように人間として顕現しているのが、我々の世界だ。実際には夢も現実もまったく同じ幻影の映像を見ているが、執着が生み出した顕現に過ぎない。時間と空間と地点という概念から運命というものが生み出される。悟った人はその事実を理解するが、普通の人間にはその術がない。執着こそが人間として存在する理由であるといっても過言ではないだろう。執着の根源は、二元的な見方に陥ってしまったときから出発している。これを輪廻と呼び、その執着がまったく無くなったとき、人間の身口意と肉体を構成する五大元素は徐々に解体していき、あるがままの次元、つまり何もない空間に光となって帰していく。それが解脱の状態だ。 身体的な顕現に幻身と虹の身体がある。幻身はゾクチェンのテクチュ-の修行段階で得られる次元であるが、虹の身体はトゥゲルの修行の結果得られる次元である。幻身はプラーナの次元段階であり、まだ二元的な見解にある。しかし、虹の身体は、光の次元に還元されているので、一切の穢れが浄化されている。テクチューの修行では、普通の視神経を使っており、トゥゲルの修行は、それとは別のもうひとつの神経管を用いるので、戸口が同じであるが、トゥゲルの顕現であるティクレが内的に生み出されるのである。最終的にはトゥゲルの修行をしないと意識を完全に浄化できないし、顕現も浄化できない。つまり、テクチューの修行では、人間の限界を超えることはできない。それは常識と同じようにまだ二元的な見解にあるからだ。 2008/06/09 16:01:40
はじめに 宗教には様々な伝統と血脈があり、どこのどれの宗教に属するかは当人の自由である。生まれた国籍や地方、師事した複数のグルによって様々だといえる。すべての伝統や文化は師なくしては、その伝承は不可能であり、教えである宗教もまた例外ではない。 自分の信仰した宗教に飽き足らず、あらゆる宗教を遍歴しようとする人やまったく宗教に興味を示さない人もいる。宗教とはいったい何を基準に人はそれを選び何をもとめているのか、宗教である限り教えであることには変わらない。教えとは何か、教えとは、人間のあらゆる問題を解決し、乗り越えていくためのものだ。そのためには道を示す必要がある。そのときなぜ宗教という教えを用いるのか、宗教が解決しようとするテーマこそが宗教を成り立たせているといってよいだろう。 あらゆる学説もあらゆる技術も宗教が扱うテーマを解決していないことに原因があるようだ。人間は宗教に何か現実を超えた何かを求めようとしている。どうにもならない現実や自分を何とかしてくれるのではないかと幻想を抱いている。教えによっては、運命は変えられるとか超自然的な能力によって問題を解決できるというような宗教が扱うテーマを超えた世界を宗教談議なるものが展開していく。明らかに現実逃避であり、目の前にある問題を直視せずに幻想を追いかけている。しかし、教えはあるがままの自分以上のものを得ることはない。 奇跡的に自分を救ってくれるものが必ずあると信じている。これは教え以前にあらゆるものに執着し、しがみつき、多くを求めている。これは欲望、つまり、煩悩に縛られているのだ。それに付け加え、寺院によっては宗教の伝統文化を盾に信者に布施と奉仕を強要している。寺院は当人の直接的な問題をまったく直視しないまま持論の宗教世界にただ引きずり込んでいるだけに過ぎない。 人は何か悟りを得ようとするときに必ず煩悩(ネガティブな意識)が妨げとなって現れてくる。ときには見解や知識が悟りに対して障害になる場合がある。つまり、意識のなかで概念的な悟りを築き上げてしまったのだ。この現象を発見したのが仏教であるといえる。様々な人生の問題の根底には必ず煩悩がその根本にあるのだ。 それをはっきりと顕わにしてくれたものが古代中国の運命学であった。煩悩のありようは運命学がしっかりと捉えていたのである。古代中国の運命学には「六大課」と呼ばれる三典と三式の伝統がある。三典は文化的薫習によって人間の存在の土台のありようを顕わにして人間の運命の限界点をはっきりと示している。それに対治する様々な運命的教誡があり、ゆえに運命学とも呼ばれているのである。三式はその清浄な土台の潜在的可能性を顕わにしたもので、人間の持つ限界点を越えるある一つの道が示されている。六大課の三典と三式ではあらゆる限界を超える可能性はあるし、あるがままの自分のありようを本当に示すことができる。つまり、道を示すことができるのだ。しかし、これも我々が閉じ込められている二元的な限界から脱出するためのさしあたってのツールに過ぎないのである。 自分を閉じ込めている限界的な見解を打ち破り、真実なる見解を基に人生を、運命を切り開いて生きて行くべきだ。文字や言葉ではこの境地を言い尽くせない。ブッタですらもこの境地を語るのに舌足らずだ。 人生を悲観したり、嘆いたりする必要はまったくない。どのような苦しみのレベルにあろうと、現実で起きていることはすべて夢の中のようなものであり、良いものでも悪いものでもあらゆるものが平等であるからだ。問題は本人の心がどうなりたいかだけだ。夢は三昧の境地にあれば自由に書き換えることができる。現実も夢もまったく同じレベルで生起しているのであるから、何の妨げも限界もない。人間の本質は、もともとそのような制約や限界によって縛られることはない。ただそのありようを本当に認識したとき、それは現実のものとなる。 自ら限界の枠や壁を自分に課す必要はない。問題はその枠や壁をすべて取り払っていくことである。突然すべての自分の限界を打ち破る必要はない。そんなことはブッタですらできなかった。その壁を打ち破る道を学んで行けばよい。自分の鳥かごをいきなり壊して大空に飛び立つことは大きな危険が伴う。しかし、人間の本性は大空につながる無限の空間に飛び立つ可能性を秘めている。誰もが心に宿している心の埋蔵経を開くときがこの時代にやっと到来した。迷うことなく断固として飛び立つのだ。無限に拡大していく空間へと金翅鳥のように雄雄しく誇り高く、何ものにも従うことなく、自らの原初的知性によって、何ものにも頼ることなく、気高く生きて行くのだ。 限界概念を乗り越える方法とは? すべての人を等しく救うためには、あらゆる限界を乗り越える必要がある。限界とは、人はどのように概念化しているのだろうか。そのためには自分を観察する必要がある。しかし、自分を観察せよといっても、それを正しく解体できるツールを現代人は持ち合わせていないのが現状だ。そのツールすら限界の中に押し込めて使用しているのだから、すぐに行き詰まるのは明らかだ。社会や社会システムに対して不平不満を巻き散らしている人は思ったより多い。その矛先は著名な政治家、宗教家、宗教学者、宗教教団などと数えればきりがない。人生においてすべてが平等に与えられてる有暇を無駄にしているといえるだろう。 ゾクチェンという名の宗教的教えの解体ツールは、人生を見誤る二元的な見方を根本から打ち砕き、人間の歪曲や欺瞞、偽りの人生を徹底的に分解し、解体して浄化し尽くす。 まず道に入った修行者が陥るもっとも恐ろしい罠は、文化や伝統と教えそのものの本質を見誤ることである。ある研究家は、中国大陸に留学してある特定の門派の伝統である古代中国のイデオロギーの洗礼を受けて、日本に戻ったとき、日本の文化にまったく価値を見出さなくなって、日本人なのに中国人のように振舞うようになり、日本文化の誹謗と中傷に明け暮れる毎日となる。変人扱いされ一部の人々としか接触しなくなる。伝統の本質を伝える方法を自分が伝授された通りに繰り返すだけだ。それでは異文化をただ輸入しただけであってまったく意味はない。それよりも伝授された本当の本質を日本文化に統合することの方が本当に価値ある行為であるといえる。なぜ伝統を輸入するだけではなぜダメなのかというと人間的成長が完全に止まってしまうからだ。あらゆる文化のすべてを経験するのに一つの人生では限界がある。大切なのはその本質をつかむことである。確かに文化や伝統は我々の生活に密着した重要なものである。しかし、その本質を見出せなければ、何度同じ場所に留学しても、幾つかの国に留学しても何の成長も得られない。ただエキゾチックな人生を縛る新たな鳥かごがさらに増えるだけだ。むしろ留学したけれど何も得られなかったことがもし本当に解かったら、その人は場所的局所性に限定されることなく、悟りを得ることができるだろう。これはもともと自国の文化や伝統を拒絶してあるがままの自分を否定してしまっていたからである。 今までまったく触れてみなかった新しい思想に魅入られて陶酔するように教えにのめり込んでいくケースがある。古代中国ではこれを「九流三教(あらゆる宗教と迷信に迷う)」という。ある種のイデオロギーに支配されてしまったのだ。そしてその枠組みに入ってこない人々にラベルを貼ってまるで同じ人種なのにまったく特別な人種であるかのように宗教的優越感に浸ってしまう。概念の悟りを構築してしまったのだ。あるがままの自分以上になれるはずはないのに自分は何か特別な人間になったかのように振舞う場合がある。ある種の宗教ツールにおいてもそうだ。お守り以上のものではないものに、それを持つと悟るとか解脱するとかという厄介なものだ。もしもそのツールが人間の限界を打ち破ったとしてもそのようなツールによって悟ることや解脱できると考えること自体、悟りや本当の解脱の意味を、人間の本当のありようをまったく理解していないといえよう。悟りとは、一時的な障害を取り除くことができることであり、問題を乗り越えていくためのものだ。その教えの真価はどれだけ自分の心を開放し心の平安を取り戻すことができるかである。教えとは現実を越えた超リアリティーを追うことではなく、あるがままの自分を見出すことにある。 宗教というものを拒絶するという考え方もまた宗教的な見解といえるだろう。あらゆる宗教を否定し拒絶して生きる人々は意外に多い。そこには宗教的な教えに対する欺瞞や挫折、葛藤が根底に潜んでいる。布教に明け暮れたり、布施や寄付によって功徳を集積したり、異常なまでの宗教戒律に没頭したり、ひたすら狂ったように宗教的供養や修行を続ける人が見受けられる。あらゆる宗教行為は、思考の構築物である限り、絶対に究極の悟りに向かうことはない。その方法では無限の生を費やしても悟りや解脱を得ることはないだろう。なぜならその方法が欠けているからだ。加行を行うにしても何万回も同じ行為をしなければいけないとしたら、根本的にその本質に向き合っていないことになるし、本気で取り組んでいないことになる。確かに加行は仏教修行の土台を作るものなので重要ではあるが、加行は真剣に取り組めば、一回で済んでしまうことではないか。加行の最終目標は、意識の家の倒壊を起こすことであって究極的な悟りを達成することではない。それが解からなければ一生加行を行うしかないだろう。 感謝や洗心を強調する教えもある。むしろ強要といってもよいだろう。感謝も洗心も、与える側と与えられる側や穢れたものと浄化されたものといった二元的な感覚が未だ意識の根底にある。感謝や洗心するよりも尊重することの方が遥かに優れている。なぜならすべての自然のルールは自他共に尊重するところから出発しているからだ。古代中国ではこれを道(タオ)といい風水思想の根本である。尊重が親に向かえば親孝行になるし、兄弟姉妹や友人に向かえば兄弟愛や友愛になる。恋人やパートナーに向かえば愛情になるし、師匠や年長者に向かえば尊敬になる。すべての生き物や不可視の存在するものたちに尊重すれば、同じように自分も尊重される。人生における最悪の状態である家庭崩壊や離婚の危機は、お互いに尊重しなくなったときに発生しているといってよいだろう。煩悩に支配されて一番大切なお互いに尊重し合うことを忘れてしまっているのだ。煩悩によって気が散ってしまっているからだ。不可視の存在から目に見えない憑依現象を受ける場合や外部のエネルギーと戦った場合もその存在を尊重しなくなったとき、初めて障りといった現象として起きるのである。しかし、その原因は、人間の煩悩からすべて発生しているのである。煩悩は正常な常識を持ったと思われる人格者であっても狂気に変貌させてしまうものだ。現代人の我々は煩悩の特質をまったく理解していないようだ。これは教育に組み込まれていないのも要因の一つと数えられるが、宗教が本来行わなければならないテーマである。特に仏教は、煩悩を解決することが本来のテーマであるように見受けられる。どのような仏教であってもお釈迦さまから出発している。お釈迦さまは煩悩を解決しようと出家なされて四諦八正道を説かれた。そしてすべての仏教は四諦八正道を基本ベースに発達したといってよいだろう。 教説や経典を重んじる教えもある。つまり、お釈迦さま自身(仏舎利)やお釈迦さまの説かれた教典を崇拝する教えだ。お釈迦さまが説かれた教えの本質を崇拝すべきであって外形や典籍をいくら崇拝しても悟りや解脱を得ることはない。お釈迦さまの象徴をいくら崇拝しても本質まで辿りつけない。仏陀の時代でも仏足頂礼は、仏陀に対する尊敬の念を態度で現したものであり、現代でも形式的な仏法僧の三宝に参礼し、供養や福徳の集積を行っても、悟りに出会うきっかけにはなってもそれによって直接解脱に至ることや煩悩を克服することはできない。自分を縛っている限界を見つけ出すことである。自分はどのような存在なのか、どのようになりたいのか、どのような態度をとっているのか。誰もが宗教とは、何か偉大な存在が奇跡的に自分を救ってくれると信じているのだ。明らかにそれは幻想であり、宗教は奇跡的に人を救うツールではない。むしろ求めているそれは、神秘学やおまじないなどのオカルト的な魔の行為に属するものだ。しかし、それも幻想にすぎない。ゾクチェンのセムデの教えには、輪廻を捨てて涅槃に向かう行為すら魔の行為としている。つまり、魔の行為も真理なる行為も行為においては平等であり、等しく何も得られないというのが見解なので、迷わず魔の行為をすべきだと説く。棄て去るものも保持するものもない。ただ心の本性であるリクパに留まり続けなさいというのがゾクチェンの見解である。三昧の境地に留まり続けることがゾクチェンのテーマであり、それはブッダが説いた人間が煩悩に対治するための唯一の妙薬だからだ。 宗教というものをすることなしに宗教をするという行為こそが本当に宗教を行っているといえるだろう。宗教することなしに宗教するとはどういうことだろう。宗教が説く教えのエッセンスのみを行えばよい。それ以外のものは、どんな教えであっても思考によって構築されたものであり、意味のないものである。ゾクチェンは思考で構築されたものを追わない。それは虚偽であり、自分をいつわることになるからだ。なぜそれではダメなのかというとそれでは人間の死を乗り越えることができないからだ。ゾクチェンは死とどう向き合っていくかがテーマであり、煩悩やカルマこそ乗り越えて行かなければならない重要なテーマだからだ。なぜなら、煩悩とカルマこそが人間の解脱と転生を分かつ根本原因であるからだ。 |